【中原中也 詩の栞】 No.61 「春の日の夕暮」(詩集『山羊の歌』より)

トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穏かです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです

吁(ああ)! 案山子(かかし)はないか――あるまい
馬嘶(いなな)くか――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮か

ポトホトと野の中に伽藍(がらん)は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云(い)へば
嘲(あざけ)る嘲る 空と山とが

瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自(み)らの 静脈管の中へです

【ひとことコラム】最終行「自(み)ら」は「みづから」。常識的な理解を拒む表現を通して、自然という大きな存在に向き合う若者の切ない心情が伝わります。既成概念や伝統を否定し言葉の形式を破壊しようとしたダダイズムに心酔していた時期の作品で、後に唯一『山羊の歌』に収められた詩です。 

中原中也記念館館長 中原 豊

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