和央ようか「親に反対されたから“絶対に入ってやる”と思ったんです」縁遠いと思っていた宝塚歌劇団を目指した高校時代

和央ようか 撮影/三浦龍司

宝塚歌劇団・宙組の元トップスター、和央ようかさん。トップ在任期間は6年を超え、平成以降の最長記録だ。現在は夫で世界的作曲家のフランク・ワイルドホーンさんとハワイで暮らし、日本と行き来しながら活動の場を広げ続けている。芸能生活35周年を迎えた彼女の素顔と人生の転機、「THE CHANGE」とは。【第2回/全5回】

友人に誘われて見た公演が宝塚歌劇団への入り口に

和央ようかさんのキャリアのスタートとなった、宝塚歌劇団。だが、宝塚歌劇は自分とは遠い世界と思っていたという。

「出身が関西なので、宝塚歌劇は幼いころから身近ではありましたが、遠い存在に感じていましたね。というのも、小学生のとき、華やかな舞台メイクを“そういう顔の人”だと思っていたんです(笑)。自分はそういう顔じゃない。だから縁のない場所だと思っていました」

転機が訪れたのは高校生のとき。友人に誘われて見に行った公演に、一気に心をつかまれた。

「最初に見たのが『翔んでアラビアン・ナイト』と『ハート・ジャック』。その次が『琥珀色の雨にぬれて』と『ジュテーム』でした」

『翔んで~』と『ハート・ジャック』は’83年に上演された演目で、当時の月組トップスター、大地真央さんと黒木瞳さんが出演していた。また、’84年に上演された『琥珀色の~』と『ジュテーム』には花組トップスターの高汐巴さん、若葉ひろみさんが出演しており、いずれも人気を博した、昭和の宝塚歌劇を代表するスターたちだった。

「もうとにかく衝撃的で、“私も後ろで一緒に踊りたい”と興奮して。2回目に宝塚を見に行ったときに熱が高まり過ぎて、帰りに友人とふたりで入った宝塚駅前の喫茶店で、“絶対に一緒に宝塚音楽学校に入ろう!”って約束したんです。そのとき約束したのが、あそこにいる方なんですけどね。私の高校の同級生」

和央さんが手を向けた先には、恥ずかしそうにしている女性の姿が。きっかけをくれた友人は、宝塚の道は一緒に歩まなかったが、いまでも和央さんの側で活動を支えているという。

両親は宝塚の受験に大反対

「喫茶店で盛り上がった熱をそのままに、帰宅して親に“宝塚に入りたい”と言ったら、母も父も大反対。でも反対されたから、“絶対に入ってやる”と思ったんです。反対されていなかったら、もしかしたら熱が冷めてフェードアウトしていたかもしれませんね」

和央さんはもともと負けず嫌いな性格だったのかと思いきや、そうではないという。どちらかというと、流れに身を任せて何も気にしないタイプ。それなのに自身でも不思議なくらい、反対されたことで宝塚への熱がさらに高まった。

「当時は高校一年生だったのですが、家族の条件として“高校を卒業する、三年生のタイミングで一度だけなら受験を許す”ということになったんです。私は歌も苦手でしたし、“どうせ受からないだろうから記念受験くらいはいいよ”という思いだったのでしょうね」

和央ようか

「あ、あった」受験番号を発見

与えられたワンチャンス。それを見事につかみ取った。

「合格発表のときも、発表の瞬間の歓喜交々のなかで落ちているのはかわいそう、ということで、親とタイミングをずらして見に行ったんです。そうしたら私の番号があって。周りにはもうほとんど人がいないから、喜びにあふれるというより“あ、あった”とリアクションも薄くて(笑)。

そのあと“合格した人はこっちに来てください”と言われて、合格者への説明会みたいなものに参加した覚えがあります。その日は、本当は親が私を慰めるために予約していたレストランで食事をしました。忘れられない、なんとも面白い日でしたね」

その後の和央さんの活躍は言わずもがな。宙組のトップスターとして、数多くの観客を夢中にさせ、平成の宝塚歌劇団を代表する存在となった。「私も一緒に踊りたい」――そう思って宝塚を目指した和央さんだが、その姿に憧れた少女たちもまたたくさんいることだろう。

和央ようか(わお・ようか)
大阪府出身。74期生として宝塚歌劇団に入団し、雪組に配属。1998年宙組創設メンバーとして組替えすると、’00年にはトップスターに就任。’06年『NEVER SAY GOODBYE- ある愛の軌跡-』で退団後は、舞台だけでなくモデルとしても活動する。’15年に作曲家のフランク・ワイルドホーン氏と結婚し、現在は米国と日本を行き来する生活。そのライフスタイルも注目を集める。

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