「デビュー日は絶望でした」 「ツバサ」ヒットから20年、アンダーグラフに聞く当時の秘話

2000年から活動を開始し、2004年にメジャーデビューしたアンダーグラフ。そのデビューシングル曲「ツバサ」は有線やラジオから火がつき、大ヒットした。

とりわけサビの〈旅立つ空に 出会いと別れ/青春の日々 全てを描き〉といったまっすぐなフレーズは印象的で、いまでもそのメロディを聴けば自然と歌詞を口ずさむどころか、熱唱できてしまう、なんていう人も多いのではないだろうか。そんな「ツバサ」のリリースから20年。リリース時のエピソードや、その歩み、これからのことについて聞いた。(ふくだりょうこ)

『ツバサ』(full MV)/ アンダーグラフ
上京して1年でなにもなかったら帰るつもりだった
――改めてバンド結成の経緯を教えていただけますか。

真戸原直人(Vo/以下、真戸原):もともといたギターの阿佐(亮介)を含めた幼なじみ3人でバンドを組みたい、と話していたのが始まりでした。でも、住んでいたのが大阪の隅っこだったのでドラマーがなかなかいなくて。そんな中、スクールでちっちゃい女の子がドラム叩いてるで、って話を聞いて、その子(=谷口奈穂子)を呼んでみようかみたいな感じでした。その後、上京する少し前のタイミングで当時のベースが辞めることになって、そのスクールの店員だった中原が加入したんです。

中原一真(Ba/以下、中原):そのときのバンドメンバーがスタジオに練習に来てるのをずっと見ていたというか、受付していました(笑)。

真戸原:中原がベースをやっているということを谷口から聞いて、何人かオーディションしたんですけど、遅刻せずにベースを抱えて待っていたので、真面目な人なんだな、と。それで一緒にやり始めたのがアンダーグラフですね。中原が加入してすぐに上京する感じだったので、東京に行って何もなかったら1年で辞めて大阪に帰ろう、と。なんのコネクションもなかったので、とりあえずワンボックスカーに荷物を詰め込んで辿り着いたのが東京……と思ったら、埼玉の浦和だったっていう(笑)。そこで、(後輩バンドの)男11人ぐらいで共同生活していたので、バンド活動の下積みとしてはそこからが本当のスタートでしたね。

■「ツバサ」はみんなの心に届く曲

――インディーズからメジャーへはどのように進んで行かれたんですか。

真戸原:東京に出てきてから3年間ぐらいは、ありとあらゆる自分たちが知っている地名の場所でストリートライブをやっていました。人は集まるんですけど、ライブハウスには来てくれないんですよね。その中で、とある関係者に出会って、「ライブもいいけど、とりあえず曲作りをもっと頑張りなさい」と。ずっと曲作りを中心にしてはいたんですけど、さらに力を入れていきました。関係者を通じて、その音源を認めてもらえたので、デビューは決まったんですけど、それまでも、“デビュー詐欺”みたいなものがたくさんあって(笑)。結局上京してから4年ぐらいかかったかな。

中原:そうやね。

真戸原:1人だったらすぐに大阪に帰っていたと思うんですけど、バンドとして小さい一歩は積み重ねていたので続けられた。あと、ほぼ毎日スタジオに入っていましたね。スタジオに入ってからストリートライブ、またスタジオに入って曲作り、というような生活をしていました。これだけ努力してるんだからデビューできるだろう、続ければ何とかなる、という気持ちでどうにかデビューをつかみました。

――「良い楽曲を作らないと」という流れの中で「ツバサ」が完成したんでしょうか。

真戸原:大阪ではそれなりに人気があったので、愛されている曲はわりとあったんです。インディーズ時代に一度だけ5カ所くらい回るツアーをやったんですけど、そこで全部新曲をやろう、ということで、楽曲をあらためて作った中でできた1曲ですね。

――曲ができたときに手応えはありました?

真戸原:それがあったらいいんですけどね(苦笑)。本当に日常の中で生まれた曲で。ひとつだけ言えるのは、時間がかからなかったんです。すぐにできる曲というのは、いまでも一番可能性を感じるんですけど、手応えは全然なかったですね。ただ、「ツバサ」はレコーディングのあとに、中原が「これは結構売れるかもな」と言ったことがあったので、それが現実になった、という印象ですね。中原がまた「売れるかも」っていう曲を作るのが俺の目標です。

中原:僕らが言う“真戸原節”みたいな、メロディの感じが好きだったので、単純にいい曲やな、と思ったんです。そもそも“真戸原節”が本人はわからないらしいんですけど。

谷口奈穂子(Dr/以下、谷口):私は売れるかどうか、全然わからなかったです。ただインディーズのときに回ったツアーで、アンケートの「一番良かった曲は?」という質問に、ほとんどのお客さんが「ツバサ」って書いてくれていて。

真戸原:ダントツでね。

谷口:そんなことってあるんやと思って。そこまで1曲に票が集中することはあまりなかったので、みんなの心に届く曲なんやな、ということはそのときに思いました。

真戸原:そんなふうにすぐにできたので、楽楽曲を作るときには苦労はなかったです。メジャーデビューするときに歌詞とかをこねくり回されかけたのでそちらの方が大変でしたね。でもアレンジは、ほぼほぼ自分たちでやって。そのままやね。

――そこが一番、戦ったところじゃないですけど。

真戸原:そうですね。例えば、〈青春の日々〉という歌詞があるんですけど、「青春という単語が古いから歌詞を全部1回書き直してほしい」と言われたんです。ファミレスに一晩こもって書き直したんですけど、全然ピンとこない。やっぱりここまでやらないとメジャーでできないのか、と思ったんですけど、途中からいっそ変な歌詞にしようと思って。そうしたら、さすがに良くないから元に戻そうということになったので結果的にはよかったです。

■絶望していたデビュー当日

――「ツバサ」がヒットしたな、と実感したのはどのタイミングだったんですか?

中原:だいぶあとですよね。バイトを辞めたとき。スケジュール的にシフトに入れなくなったので。“バンドマンあるある”で、籍だけ置いてもらってシフトに入れるときは入って、という形だったんですけど、現実的に考えて無理になってきたときに「やっと音楽でごはんが食べられる」と思いました。

谷口:私もバイトを辞めたときですね。大阪だと、バイトも時間の融通は難しかったんですけど、やっぱり東京は何かを目指している人が多いから、シフトを代わってもらえたりもしたんです。でも、いよいよ辞めなあかんねやな、というときに実感しました。

真戸原:リリースが2004年9月で、『ミュージックステーション』に出たのが翌年の2月だったので、その5カ月間は怒涛でした。僕は一人で1カ月の間に33都道府県をめぐるキャンペーンに出ていたりしたので、みんなよりも先にアルバイトに入れなくなったんです。当時は共同生活だったので、みんなにアルバイトに入ってもらって、家賃を払ってもらう、みたいな。そういう状況が続いていたので、当時の事務所に「このままだとみんな倒れるので何とかしてほしい」って交渉して認められたときに“売れた”と感じたかもしれないです。あとはテレビに出たあとは急に親や親せきが優しくなったなとか(笑)。

――売れた、ヒットしたという実感はだいぶ後だったんですね。

中原:リリース日にCDショップに行ってもCDがそもそも並んでなかったですし。

真戸原:デビュー日はもう、絶望でしたね。やっぱりデビューっていうとCDショップにCDが並ぶだとか華やかなイメージがありますけど、本当に何もない。友達から「どこに行ってもCDがない」という苦情の電話しか来ない状況で。要するに、その日にリリースしただけで、宣伝も何もなく。これが待ち望んだメジャーデビューか、という感じでしたね。

――当時はネットで買うということもないですもんね。

真戸原:そうそう。有線放送で、みんなが聴いてくれてCDを買いに行ってくれたり、Yahoo!で、「アンダーグラフ」とか、「ツバサ」の歌詞を調べてくれて。そうすると、ホームページがすぐパンクしちゃうんですよ。その辺りからみんな聴いてくれているのかな、とか、『CDTV』でランキングがだんだん上がっていくのを見たり。僕らはアルバイトしているだけで何もしてないけど、曲だけどんどん広まってるな、ぐらいでした。それでもトップ30に入ってきたあたりから事務所も、レコード会社もざわつき出しましたね。

中原:CDの増刷が来た、って言われて、ちょっとずつ実感が湧いていきました。

真戸原:本当にあの頃は、フォアボールでもいいから塁に出たいっていう気持ちがあったんですよね。「ツバサ」は上京した人の気持ちを狙って書こうと思っていたので、それがたまたまうまくいったんだな、と思います。

ーー下世話な話ですが、あれだけあちこちで流れていたら印税も相当入ってきたのでは?

真戸原:食費が月3000円しかなかった激貧乏時代の4年間を、1年で取り戻すぐらいですかね(笑)。

――なるほど(笑)。現在は独立して、皆さんで所属事務所の株式会社197を運営されているんですよね。自分たちで会社をやろうと思ったのにはどういった経緯があったんでしょうか。

真戸原:所属していた事務所からマネジメント部門がなくなったんですよ。それで他の事務所に所属しようかとも思ったんですけど、自分たちでやれるタイミングなんじゃないか、と当時の社長からも言われて。レーベルを作るのかとか、流通は出せるのか、とか細かいことも調べて、話をしているうちに僕らは本当に何も知らずに、変な話、ライセンスがないままにミュージシャンをやってたんだな、というぐらい衝撃的なことがたくさんありました。でも新しいことを知ってやっていくのはめちゃくちゃ面白いんじゃないか、ということで、続けている感じですかね。

中原:知らないことを知れるとやっぱり楽しいし、もっと知りたいってなるじゃないですか。その連続かもしれないですね。やっぱり知識は必要やなっていうのは、改めて思いました。

――今後は、どのようにバンド活動をしていこうと考えていらっしゃいますか。

真戸原:自分たちで会社を始めてから知ったことは まだまだ少ないので、どういう形が理想なのかはまだ探っているところがあります。でも一番は続けていくっていうことですね。社会貢献活動もしてきましたし、バンドマンやミュージシャン像がある意味で変わるような活動をしていけたらいいなって思ってるんで。後輩に対しても、自分たちで事務所をやりたいと思ったときに全部質問に答えてあげられるような、そういう大人のミュージシャンをやっていきたいですね。逆にアンダーグラフとしては、子ども心を忘れずにいられたらいいなと思っています。

(文=ふくだりょうこ)

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