世界一高い薬「ゾルゲンスマ」が伸び悩む理由

ゾルゲンスマは2019年の発売時、世界最高額の医薬品として注目を浴びた (swissinfo.ch)

5年前、210万ドル(約3億2000千万円)という驚異的な価格で発売された遺伝子治療薬「ゾルゲンスマ」。1回限りの投与で効果をもたらすと期待されたが、当初想定したほど売上げが伸びず、販売するスイス製薬大手ノバルティスに対する圧力が高まっている。 ノバルティスのヴァス・ナラシンハン最高経営責任者(CEO)は1月、2023年12月期決算発表で「ゾルゲンスマ」(一般名・オナセムノゲン・アベパルボベク)について言及さえしなかった。2019年の発売当時は、脊髄性筋萎縮症(SMA)を治療する初の遺伝子治療として大々的に喧伝した。SMAは遺伝性の神経筋疾患で、世界中で乳児の命を奪っている。 ※SWI swissinfo.chでは配信した記事を定期的にメールでお届けするニュースレターを発行しています。政治・経済・文化などの分野別や、「今週のトップ記事」のまとめなど、ご関心に応じてご購読いただけます。登録(無料)はこちらから。 ゾルゲンスマは1回の投与で効果を発揮する。数十億ドルの売上げが期待できるとして、ノバルティスは成長事業の1つに据えていた。アナリストは年間19億ドル(約3000億円)の売上げを予想し、28億ドルとはじく投資銀行もあった。2020年に欧州医薬品庁(EMA)が条件付きでゾルゲンスマを承認すると、2021年の売上高は46%増の13億5000万ドルに跳ね上がった。 だがゾルゲンスマは勢いを維持できなかった。2022年の世界売上高はドルベースでわずか1%しか増えず、2023年には11%減の12億1000万ドルとなった。牽引役の米国でも2023年の売上高は14%減の3億7200万ドルとなり、2年連続の減少となった。 製薬業界コンサル企業ローランド・ベルガー・チューリヒ支社のマネージング・パートナー、マティアス・ビュンテ氏にとって、ゾルゲンスマの伸び悩みはさほど驚くことではない。「主要市場で初期成長を遂げた後は、SMA患者の出生率が売上げの枷となる。継続的な収入源を生む慢性治療とは異なり、1回投与の治療薬では予想されたことだ」 売上高の落ち込みも決算発表での存在感の薄さも、ゾルゲンスマの生みの親である新興企業エイベキシスを87億ドルで買収した2018年時点でノバルティスが抱いていた期待からは程遠い。 ノバルティス広報はswissinfo.chに対し、伸び悩みの原因として「(米国など)確立された市場では現在、前から罹患している患者より新患者の治療を優先している」ことを挙げた。言い換えれば、ゾルゲンスマはすでに対象となるSMA患者全てに行き渡っており、今後の売上げは新たにSMAの診断が下った患者の数に左右されることになる。 ノバルティスは、医療予算のひっ迫する国ではゾルゲンスマが価格に見合った効果を持つかどうか疑問を抱いているため、米欧の富裕国以外での普及は難しいとみている。 医薬品承認において世界を先導する米食品医薬局(FDA)は2019年、ノバルティスが210万ドルと値付けしたゾルゲンスマを各国に先駆けて承認した。投与1回の治療費としては史上最高とされた金額だ。 ゾルゲンスマを承認した国は2024年1月時点で51カ国に上り、3700人超を治療してきた。だが患者の購入資金を補助する国はわずか35カ国に限られる。多くのSMA患者は金銭的余裕がないか、クラウドファンディングに頼らざるを得ない状況だ。 価格の正当化 世界で約1万人に1人の乳児がSMAに罹患し、米国では年間約300人の乳児が発症する。SMN1と呼ばれる変異遺伝子により、筋肉に重要な信号を送るタンパク質SMNが細胞で十分に生成されなくなる。SMNの不足は運動ニューロンを阻害し、筋肉が弱体化する。 最も重度になると乳児は頭や足を持ち上げることができなくなり、飲み込みや呼吸が難しくなる。ほとんどは呼吸器系の問題を抱え2歳までに死亡する。成人も発症することがあるが、それほど重症ではない。 SMAのような難病の治療薬は、開発に数年の年月と数十億ドルの経費を要する。投資を回収し生産量の少なさを補うため、製造元は高価格で販売する。 ノバルティスはゾルゲンスマが高額になった理由として、1回の点滴投与で遺伝性病因を根本治癒できると主張した。欠陥のある遺伝子を正常な遺伝子に置き換えることで命を救うだけでなく、家族や医療システムをも高額治療から解放できるとした。 ゾルゲンスマ登場前は、SMAの治療薬は米バイオジェンが2016年に発売した「スピンラザ」(一般名・ヌシネルセン)だけだった。年3回の脊髄注射に30万~50万ドルの治療費がかかり、10年間でゾルゲンスマ1回の価格をはるかに超える。 ノバルティスはゾルゲンスマの価格設定方法を公開していない。外部の試算も71万~210万ドルと振れ幅があり、高価格の根拠をめぐる論争に油を注いでいる。 価格設定過程でゾルゲンスマを投与された患者数が極めて少なかったことも、値決めに対する疑惑を呼んだ。多くの致死性難病の治療薬と同じく、ゾルゲンスマの承認手続きも米欧日で審査期間の短縮が認められた。 FDAは計40人弱の患者を対象にした臨床試験データを基に決定を下した。ゾルゲンスマを投与した乳児の大部分は生存し、自力で呼吸できるようになり、服用から2年後には補助なしで起き上がることができるなどの効果がみられた。 だが回復速度には大きなばらつきがあり、肝臓疾患などの重篤な副作用もみられた。審査期間の短さは、薬の効果の持続期間に関するデータがないことを意味する。米国外から治験に参加した患者もほぼゼロだった。 米国など一部の国は、ゾルゲンスマの投与対象を2歳未満の最重度SMA患者に絞り、安全性と有効性について最も強力な証拠がある場合に限定した。 EMAは体重21キロまでの小児(5歳までの幼児も含まれる可能性がある)に投与対象を限定し、多くの加盟国は生後6カ月未満の乳児にのみ治療費を助成している。 薬価のハードル ノバルティスにとって市場の地理的な拡大が重要になっている。だが医療需要の増加と限られた国家予算を踏まえると、中所得国の多くは値付けの正当性をさらに厳しく見ている。 ブラジル市場へのゾルゲンスマ参入に関する論文を共著した公衆衛生研究者ヴェラ・ペペ氏は、swissinfo.chに対し「希少疾患の治療薬は速やかに市場に投入する必要があると同時に、非常に高価で不確実性が高いという課題がある」と説明する。「ブラジルのようなユニバーサル医療体制をとる国では、有益性に関する臨床データが少なく不確実性の高い高額医薬品にお金を出すという負担を社会に課し、莫大な機会費用を負うことになる」 ブラジル政府とノバルティスは価格・条件交渉に2年以上を費やし、2022年末に最終合意に至った。ノバルティスは1回の投与額を110万ドル、投与人数を乳児250人未満に抑えることに同意し、ブラジルでの治療効果を長期的に研究することを約束した。 だがトルコなど他の国々は、安全性と有効性を示す十分な証拠がないとしてゾルゲンスマを拒否している。 薬価設定を支援するスイスの新興企業ライフジェンのギリシャ・フェルナンドCEOは「企業は200万ドルの医薬品を市場化し、政府に支出を期待することはもはや不可能だ。それ以上の何かを提供する必要がある」 ノバルティスは中所得国がゾルゲンスマを利用しやすくなる方法を模索している。保険会社や保健当局に対し、割引や分割払い、リスク分担協定などを提案する。対価は事前の合意内容に依存する。 昨年はアルゼンチンの公的医療保険者との間で、ゾルゲンスマを130万ドルで提供する契約を結んだ。ライフジェンによると、対価は「患者で観察された結果が利用可能な科学的証拠に基づいて期待される結果と一致する」場合にのみ支払われる。 SMA患者のいる家庭にとって、ゾルゲンスマの販売を待つのは苦痛を伴う。治療開始が遅れるほど病状は悪化し、ゾルゲンスマで回復する可能性が低くなる。 データのジレンマ ノバルティスは臨床試験結果の増加や、医療機関の電子カルテなどの情報を集積した「リアルワールドデータ」にも助けられている。投与を受けた患者に良好な結果が現れているからだ。 ノバルティスは2023年3月、幼児の時にゾルゲンスマを投与した患者が7年経過後も座るなど主要な運動機能を維持し、補助なしで呼吸できているという自社研究を発表した。重症度の低い年長児も、改良版ゾルゲンスマを高用量で投与したところ症状が改善した。 一方、回復が止まった患者もいた。研究に参加した子ども81人のうち、24人は他のSMA治療を受けることになった。スイスで行われた9人の患者を対象にしたものなど、期待される結果にばらつきが大きいことを強調する研究もある。 治験データの増加に伴い、ゾルゲンスマは投与1回で治療できるという当初の売り文句は裏付けを欠くことが明らかになってきた。 「遺伝子治療に関する最初の発表内容から、親たちは子どもの病気が治ると期待を膨らませた。これが非常に複雑でまだ完全に解明されていない病気に対する誤解を生んだ」。SMA患者団体のニコール・ガゼット氏はswissinfo.chの取材にこう話した。「治癒という言葉は広い意味を持ち、慎重に使う必要がある。病気の進行を安定させたり目に見える症状がなくなったりするのは大きな成功と言えるが、必ずしも病気の治癒と同義ではない」 他のSMA治療薬の登場に伴い、ノバルティスへの圧力はさらに高まっている。FDAは2020年、ノバルティスの競合会社ロシュが年長児や成人のSMA患者向けに開発した「エブリスディ」(一般名・リディスプラム)を承認した。その後対象は生後2カ月未満の乳児にも拡大され、ゾルゲンスマにとって最大の強敵となった。 エブリスディは錠剤とシロップがあり、遺伝子治療よりも投与が容易なのが特長。患者の体重に応じて年間10万~35万ドルの費用がかかる。エブリスディは100カ国以上で承認され、世界中で1万1000人を超えるSMA患者が服用している。 「全ての治療法には病気の進行を安定させる能力がある。現段階で明らかになっていないのは、どの集団・個人にどの治療法が最も効果があるのかということだ」(ガゼット氏) 適正価格とは 数十億ドルを投じて遺伝子治療薬の開発に取り組む他の製薬企業は、スイス勢がこうした逆風をどう乗り越えるか注視している。FDAに登録されている細胞・遺伝子治療の臨床試験は1500件を超える。昨年FDAが承認した5件のうち、鎌状赤血球症の治療薬2件の薬価はゾルゲンスマを上回る(220万ドルと310万ドル)。 協和キリン傘下の英バイオ企業、オーチャード・セラピューティクスが今年3月発売した異染性白質ジストロフィーの遺伝子治療薬「レンメルディ(リブメルディ)」は米国の薬価が425万ドルと決まり、新記録を樹立した。異染性白質ジストロフィーは幼児の中枢神経系を攻撃する遺伝性の超希少疾患で、米国では年間約40人の新生児が発症している。 薬価設定に詳しいチューリヒ大法学部・医学部のケルスティン・ノエル・フォキンガー教授は、「希少疾患や致死性疾患の患者は治療を必要としているため、政府に対して新薬承認への圧力が高まるのは当然のことだ」と語る。「問題は、薬の真の治療価値が明らかになっていない段階で、どのように薬価を交渉できるかということだ」 編集:Nerys Avery/vm、英語からの翻訳:ムートゥ朋子、校正:大野瑠衣子

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