遠征帰りは耳や鼻の穴が真っ黒…1日2勝は2度・小山正明さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(38)

1966年6月の西鉄戦、小山正明さんは通算58無四球試合で当時のプロ野球記録を更新した=東京

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第38回は小山正明さん。「精密機械」と称された制球力を武器に歴代3位の320勝を挙げた、昭和の匂いがする名右腕です。当時のプロ野球界を取り巻く過酷な環境は、現在では考えも及びません。(共同通信=中西利夫)

 ▽もう1000年たっても300勝なんでできない

 僕はテストで阪神に入ったものだから、統一契約書の契約をしてもらえませんでした。今で言う育成選手。それからは、ほとんどの日が1軍の打撃投手です。当時はチーム専属の打撃投手がいないので、どんどん投げました。試合前のフリー打撃の時間は40分~1時間。10分で50~60球を投げます。それを1人で投げたりしたので強い肩ができました。完投で120~130球投げても、びくともしません。よく叱られました。「ストライクぐらい投げろ」「毎日、何の練習をやってるんだ」。先輩打者にどなり声を上げられると、なお緊張してしまって。来る日も来る日も投げて、どうやってストライクを放ろうかという気持ちしかなく、最終的にはコントロールにつながっていきました。打者が入ると、ものすごくええ練習になるんです。成長過程の一つとして、後の小山を生んでくれたということでしょう。

プロ2年目の小山正明さん=1954年2月撮影

 ここでストライクが欲しいという場面で、今の投手はストライクが取れません。挙げ句の果てに四球の大安売り。その最たるものが(2017年4月の)阪神と広島の試合でプロ野球タイ記録の26四球。考えられません。投げ込んでコツをつかむ。そういう道を歩んでいる人は皆無でしょうね。春季キャンプのブルペンで50~60球投げると翌日は新聞の活字になりますが、僕たちの時は一本立ちしてからキャンプで投げる球数は1日に100、200というもんじゃなかった。よく言われるんです。320勝すごいねと。もう100年たっても1000年たっても、間違いなく300勝なんてできません。そういう数字が出てくるまで耐えられた自分に誇りを感じます。

1962年の小山正明さん。27勝を挙げて阪神のセ・リーグ優勝に貢献した

 ▽「あのおじい、何ぬかしとんねん」と言われても構わない

 当時の交通機関では当日移動で試合ができるということはあり得ませんでした。(阪神入団当初の1950年代は)東京―大阪間が8時間。月曜日と金曜日が移動日でした。そのため日曜日がダブルヘッダーです。僕の320勝の中にダブルヘッダーで2試合とも勝利投手になったというのは確か2回あるはず(1960年と68年)。最初のゲームにリリーフして、次の試合に先発するとか。こういうものに耐えてきているわけですよ。何で耐えられたかというと、球数を投げ込んで練習を積んできているからです。とても想像もできないでしょう。今は6、7回投げると次の日はベンチに入らない。1週間のちに出てくる。僕の感覚で言わせれば、完投して1週間も休んだら、おかしくなってしまう。球を投げるリリースの感覚がなくなってしまう。

1964年5月の阪急戦で通算2000奪三振を達成した小山正明さん。山内一弘との「世紀のトレード」で東京へ移籍したシーズンだった=東京

 広島にナイター設備ができたのが昭和32、33年かな(広島市民球場が1957年に開場)。甲子園が31年だから、その後だったですよね。広島の球場は昔の広島空港から市内に入って行く間にあった(広島市西区)。それまでは全部デーゲーム。夏なんかカンカン照りですよね。広島から次は内陸に入った三次市へ木炭バスで行った。その後は呉市の球場で、呉から帰るのも蒸気機関車。今みたいにクーラーが利いてないですよ。暑いから窓を開けると、トンネルで機関車のばい煙が舞い込んだ。神戸に着いたら耳や鼻の穴が真っ黒けです。
 夏の甲子園大会の時にタイガースは「死のロード」。東京に出て、上野から列車で北海道へ。日本旅館で8畳の部屋に4人でした。こう言うことをしゃべっても一笑に付されますけど、今は伊丹空港から2時間、行った先は一流ホテル。あまりにも環境に恵まれている。われわれは考えてもみなかったことです。
 声を大にして言いたい。各球場、お客さんで膨れ上がっているが、それまでにどれだけの先輩たちが苦しい環境の中で日本のプロ野球を支えて、今日を築いてきたか。こういう話は、ぼやき節になってしまう。そうならざるを得ないですよ。こういう記事を今の選手が見たら、あのおじい、何ぬかしとんねんとなる。言われても構わない。環境に甘えすぎですよ。

現役最終年の1973年は大洋(現DeNA)でプレーした小山正明さん

 ▽人と同じ事をやっていては、人の上には行けない

 僕は健康な体を、まず親に感謝しないといけない。11歳で終戦になりました。日本列島に物がなくなって、特に食料難に遭遇しました。実家は小作の人に田んぼをやらせて、年貢で米が出ていました。それが農地改革で、うちはポシャってしまった。米の代わりにサツマイモ。メリケン粉を練った「すいとん」も。おやじが一言「こういう状況だけども我慢しろ。おまえが成長したら、とにかく食べ物だけは許す限り、ぜいたくしていい」。いまだに耳にこびりついてます。そこそこタイガースで給料をもらえるようになったものの、余裕なんてない。その中で食べ物には貪欲になって、食を楽しむというのが多かった。
 プロで駆け出しの時分に、エースの梶岡忠義さんや真田重蔵さんにアドバイスをもらった。コーチがたくさんいる時代と違います。先輩たちが適切な助言をしてくれた。これも感謝ですね。「小山、シーズンオフに田舎に帰ったら走れるだけ走れ。走ることだけ考えてオフを過ごせ」。寒風の中、県道を走りました。母校の高砂高(兵庫)近くに加古川が流れていて、その橋の欄干にタッチして帰ってくる。片道が15キロ。そこを持久走で毎日走った。それによって、ますます球に力が出てきた。今の選手は自分の練習メニューを自分でようつくらない。コーチのメニューをこなしたら練習ができたなんて、とんでもない話ですよ。人と同じ事をやってたんでは、人の上には行けない。
 昭和36年(61年)のシーズンを思い出す。阪神で11勝22敗なんです。すごい数字ですよ。そこまで投げたと言うことです。防御率が2・40。(60年は2・36で25勝19敗)。全然点が取れなかったんです。数字が逆になっていてもおかしくない。そういうシーズンも過ごしました。別に調子が悪かったわけではないんですよ。阪神は打てなかったが(64年に移籍した)オリオンズはよく打った。負けそうなゲームでも打って勝ってくれた。阪神ではあんまり経験なかった勝ち方もしました。

2012年11月、阪神と巨人のOB戦に出場した小山正明さん=甲子園

 ▽完投勝利は投手の勲章。今の子たちは全く感じてない

 時代が時代とはいえ、どんなふうになっていくのかな。お客さんは先発完投投手を見に来たものですが、最近は完投できる投手がいても、肩は消耗品だといって、させません。何でここで投手を代えるんやというのが、多々あるからね。ことあるごとに1イニング刻みで投手が出てきます。こんなもの見てて何が面白いんですか? 投手の品評会じゃないんですよ。完投勝利を収めるというのは投手の勲章。今の子たちは全く感じてないと思いますね。だから誇りも何にもないと思います。どれだけ打たれても勝ったら喜んでいる。だから甘いんですよ。湯につかって野球をやっているというかね。ノックアウト食らってベンチに帰ってきた投手に拍手なんて。えらい時代がきたもので、この先どうなるのかなと思いますね。

インタビューに答える小山正明さん=2023年8月撮影

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 小山 正明氏(こやま・まさあき)兵庫・高砂高からテスト生で1953年に阪神入団。緻密な制球力とパームボールを駆使した。62年は27勝でリーグ優勝に導き、沢村賞に輝く。山内一弘との「世紀のトレード」で東京(現ロッテ)に移籍した64年は30勝で最多勝。同年8月に名球会入り条件の200勝に到達。73年の引退までに320勝と3159奪三振を積み上げた。34年7月28日生まれの89歳。兵庫県出身。

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