戦国武将たちは戦のない平時(1日)をどのように過ごしていたのか?

戦国武将 イメージ画像

戦国武将といえば戦ばかりしていたイメージがある。

しかし平時には、大名は領地の内政や外交を行ない、家臣たちは割り当てられた仕事をこなしていた。
また、学問の習得や武芸の稽古に励んでいた。

今回は戦国大名とその家臣たちの、平時における1日について掘り下げてみよう。

伊達政宗の1日

戦国武将の1日は「日が昇る前に起き、日が暮れたら寝る」という、とても規則正しいものだったと言われている。

この当時は、明かりを得る手段が「灯明皿(とうみょうざら)※油に灯芯を浸して点火し明かりとして使用するもの」しか手段がなく、夜になると一気に暗くなるために行動が制限されたからだ。

また、戦のない平時に大名が気を緩めて不規則な生活を送れば、家臣たちに悪い影響を与えてしまう。
そのために大名は率先して規則正しい生活を実践し、家臣たちの模範となるように心掛けたという。

中でも規則正しい生活を送っていたことで知られるのが伊達政宗である。

画像:伊達政宗 肖像画。土佐光貞 (1738 – 1806) 筆。東福寺・霊源院所蔵 public domain

「東北の雄」「奥州王」といった異名を持つ政宗は、その勇猛な印象とは反対に「健康への意識」がかなり高かったと言われている。

政宗の従弟である伊達成実が書いた『伊達日記』には、政宗の1日が細部に渡って下記のように書かれている。

〇午前6時頃:起床
髪を束ねてから手水で顔を洗い、小姓の用意した虎の毛皮の上に座り、煙草を一服する。
〇午前6時30分~8時30分頃:閑所に入る
閑所(かんじょ:今でいう書斎)に入り、その日の行動予定や家臣への指示内容の確認と書状の執筆を行なう。
〇午前8時30分~9時頃:行水・髪結い
閑所で1日の必要な準備をした後に水屋で行水し、居間で寝間着の小袖から普段着用の小袖に着替えて、足袋を履き小姓たちに髪を結わせている間に家臣たちに指示を与える。
〇午前9時頃:朝食
表座敷(客間として使用する座敷)で指名した家臣数名を伴って朝食を摂る。食事中は政宗を含む全員が足を崩すことなく正座で食べながら軍事や内政・外交についての意見交換を行う。食後は足を崩してお茶を飲み菓子を食べながら談笑をし、ここでまた煙草を一服。
〇午前11時~午後2時頃:政務・決済
領国内の政務や決済、外交関係の業務、領国内の視察を兼ねて鷹狩りに出かけることもあり、接待客の接待などで昼から酒を飲むこともあった。
〇午後2時頃:間食
戦国時代は1日2食が基本だったために昼食はなしで、小腹が空いた時にはこの時間に菓子や果物などを食べ、そして煙草を吸って息抜きをした。
〇午後3時~午後5時頃:閑所に入る
再び閑所に籠り、その日の業務内容を振り返りながら翌日の予定・やるべきことを確認する。健康に気を配り料理の知識も豊富だった政宗は、この時間にその日の夕食の献立に自ら目を通す。
〇午後5時頃:行水
水屋で2回目の行水、行水はこの時代1日に1回が基本だったが、政宗は必ず朝夕の2回行い、寒い冬でも必ず行水を行なって1日の汗を流した。
〇午後6時頃:夕食
夕食は表座敷ではなく居間で摂ることが多かったが、ここでも指名した数名の家臣たちを伴うのが常で、今後の軍事や政務についての話し合いが行われた。
〇午後8時頃:就寝

政宗は、食後のお茶とお菓子を楽しんだ後、いつも午後8時頃には就寝していたようだ。

当時は煙草が流行したが、吸い過ぎで身体を壊した戦国武将が多かった。
健康に気を配っていた政宗は、喫煙を1日4~5回ほどに留めていたという。

早起きだった戦国大名の家臣たち

それでは、大名に仕える一般的な家臣たちの暮らしはどうだったのだろうか?

画像 : 北条早雲 public domain

相模国の北条早雲が書いたとされる「早雲寺殿廿一箇条」は、日常的な生活上の心得などを簡潔明瞭に示している。

まずはその中から、幾つかを抜粋してみよう。

・朝は常に早起きを心掛けること。遅く起きれば召使らも気を緩め、公務に差支えが生じる。その結果必ず主君にも見放されてしまうだろう。

・夕刻は戌の刻(いぬのこく:午後8時前後の約2時間)までに寝ること。夜盗は子の刻(ねのこく:午前0時前後の約2時間)から丑の刻(うしのこく:午前2時前後の約2時間)に訪れるから、無用の雑談などで夜更かしをすると夜盗に忍び込まれて家財を盗まれてしまうだろう。これは家の存亡だけでなく世間の評判も悪くするので注意が必要である。

・寅の刻(とらのこく:午前4時前後の約2時間)には起き、行水をして礼拝を済ませ当日の予定を妻子らに伝えて出仕すること。以上を卯の刻(うのこく:午前6時前後の約2時間)までに済ませること。寝過ごしてしまえば出仕が遅れて仕事に支障をきたし、己の用事も済ませられず時間を無駄にしてしまうからである。

この「早雲寺殿廿一箇条」の内容を参考にすると、一般的な戦国大名の家臣たちは以下のようなスケジュールで生活をしていたと思われる。

〇午前4時頃:起床
行水をして身支度を整え、屋敷内を見回り神仏への礼拝を行なう。
〇午前6時頃:出仕
主君の屋敷、または城や政務を取る政庁などへ赴き、役職ごとの職務を開始する。
身分の低い者は、内職や畑仕事を中心に行う。
〇午前8時頃:朝食
持参した弁当を食べる。家臣に朝食を用意した大名もいたが、朝食後に仕事を続行し仕事の合間には武芸の稽古をする。
〇午後2時頃:夕食
仕事を終えて帰宅し夕食を摂る。この当時は1日2食が基本だった。
〇午後6時頃:閉門
屋敷・城などの門を閉じ、これ以降にやって来た客は急用でない限り受付けなかった。
〇午後8時頃:就寝
屋敷内や城内などを見回りし、火元の始末をしてから眠る。

家臣たちの起床時間は午前4時頃と早く、午前6時には出仕してもう働いている。
朝食を摂る以外は、基本的に働き通しであることが分かる。

大名を今の社長だとすれば、家臣たちは社員となる。
社長と同じ時間に起きてそれから支度をして出社すれば、業務に支障をきたすことも多いはずだ。
そのため、家臣は大名よりも早く出仕して主君が到着した時にはもう働き始めていた。

1日2食の時代だったため、大名のように間食を摂ることもなく働き通しで、帰宅してから午後2時と早めの夕食となる。
それまでは、空腹で働いていたようだ。

このように戦国武将たちは、平時においてもかなり規則正しい生活を送っていたようである。
不規則な生活を送っていると心身のバランスを崩し、いざという時(戦)に本来持っている実力を発揮できないとされていたのだろう。

いつ戦いが始まっても全力で戦えるように、戦国武将たちは常日頃から規則正しい生活を心掛けていたのだ。

参考文献:「伊達日記」「早雲寺殿廿一箇条」ほか

© 草の実堂