ロンドン五輪で「履いてない」話題「安心してください」【「裸足サッカー」ワールドカップの大舞台へ】(2)

シューズを履かなければならないならワールドカップを棄権する。そんなウソのような本当の話が…(写真はイメージです)。撮影/中地拓也

サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回のテーマは、サッカー史に残る奇談。

■第二次世界大戦後「初めて」のワールドカップ

第二次世界大戦(1939~1945)が終了して、最初のワールドカップがブラジルで開催されることになった。立候補したのはブラジルただひとつで、1946年の国際サッカー連盟(FIFA)総会であっさりと決まった。当初、決められた開催年は1949年。ただ、この日程では予選の日程がとれないという理由で、半年後には1年延期して1950年に開催されることになった。以後、ワールドカップは4年ごと、オリンピックの中間年に開催されている。

予選大会の参加申し込みの締め切りは、1948年12月31日。30か国がエントリーし、FIFAは大陸ごとの出場割り当てを以下のように決めた。当時は、南米サッカー連盟(CONMEBOL)以外に地域連盟はなく、FIFAの「地域割り」は交通の便などを考えてのものだった。

欧州/中近東 8
南米 5
北米と中米 2
アジア 1

アフリカには当時、エジプト、リベリア、エチオピア、南アフリカの4つしか独立国がなく、エントリーは皆無だった。欧州のグループには、「中近東」からトルコとパレスチナが入っていた。そしてアジアからのエントリーは、ビルマ(現在のミャンマー)、インド、そしてフィリピンの3か国だった。

アジア予選ではフィリピンが早々と棄権。続いてビルマも棄権し、インドは1試合も予選を行うことなく出場権を獲得した。予選は1950年4月9日のポルトガル対スペインですべて終了し、FIFAの組織委員会は4月30日に「1次リーグ」の組分けを決めた。インドは第3組、イタリア、スウェーデン、パラグアイと組むことになった。しかし、大会まで2か月となったこの時点になって、インドサッカー協会は突然FIFAに棄権を通告してきたのである。

■インドサッカー協会が出した「出場のための条件」

インドサッカー協会の公式的な「棄権理由」は、「出場経費をまかなうことができない」という経済的なものだった。しかし、これが「表向き」のものであることは明らかだった。すでに出場決定国からトルコとスコットランドが出場辞退を表明、FIFAはフランスとポルトガルに代替出場を要請したがポルトガルは拒否。16チームでの開催予定が15チームになっていた。これ以上出場国を減らしてはならないと、インドに対し、FIFAはブラジルまでの渡航費の負担を申し出ていたからだ。

そこでインドサッカー協会が出した「出場のための条件」が、「裸足でのプレーを認めること」だった。1948年にロンドンで開催されたオリンピックにインドが出場した。その大会で、インド選手の多くはサッカーシューズを履かず、「裸足」でプレーしていた。シューズを履いた選手と履かない選手が混在するのはケガの危険がある。そこでFIFAは、1950年2月15日のワールドカップ組織委員会の会議(パリ)で、大会出場の全選手にシューズの着用を義務づけたのである。

インドサッカー協会は、この規定の撤回を求めた。しかし、FIFAは拒否した。その結果、インドサッカー協会は最終的に棄権することを通知してきたのだ。

■国際舞台デビューで足首を保護「履いてますよ!」

インドはいわゆる「世界4大文明」のひとつ「インダス文明」の発祥地として、古代から世界に知られる国だった。しかし、18世紀から英国に支配され、19世紀なかばから約1世紀にわたって英国の植民地となっていた。そうした歴史からサッカーの導入は早く、カルカッタ(コルカタ)を中心にサッカー熱が高まり、レベルも高かった。

インドサッカー協会の設立は1937年である。10年後の1947年に独立国となった後、さっそく1948年にFIFA加盟を果たし、この年のロンドン・オリンピックで国際舞台にデビューを飾った。このときに選手たちの「裸足」が大きな話題になったのだ。

ただ、正確には「裸足」ではない。選手たちは包帯あるいはサポーターで足首を保護していた。指先は出ていたものの、何も「履いていない」状況ではなかったのだ。安心してください!

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