「日の丸飛行隊」笠谷幸生さん死去 80歳 「マッサン」の贈り物から育ったジャンパー

笠谷幸生さん(1971年)

26日未明に訃報が流れたスキー・ジャンプの1972年札幌五輪金メダリストの笠谷幸生さんは、日本の冬季五輪史上初めて表彰台の頂点に立った選手だった。フィギュアスケートの妖精ジャネット・リン(米国)とともに大会の顔として歴史に名を刻んだ。

23日午前、虚血性心疾患のため札幌市内の病院で死去した笠谷さん。80歳だった。札幌五輪ジャンプの70メートル級(現ノーマルヒル)で1本目84・0メートルをマークすると、2本目も79・0メートルにまとめて優勝。2位の金野昭次、3位青地清二(いずれも故人)とともにメダルを独占し、「日の丸飛行隊」を世界にアピールした。

ジャンプ選手の所属先では金野さんの拓銀、青地さんの雪印などが実業団として有名だが、笠谷さんはニッカウヰスキーの社員だった。同社の創業者は2014年度のNHK連続テレビ小説「マッサン」の主人公のモデルとなった竹鶴政孝。1941年、政孝が北海道余市中(後の余市高、現余市紅志高)の校長に要請され、子供らのために建造・寄贈したジャンプの競技施設が「桜ヶ丘シャンツェ」で、後に「竹鶴シャンツェ」と呼ばれるように。40年にはニッカの第1号ウイスキーが発売されていた。

43年に生まれ、余市高に進んだ笠谷さんがこのジャンプ台で力をつけて飛躍していった話は広く知られる。ニッカのホームページによると、笠谷さんの快挙を機に、さらなる子供ジャンパー育成のために「笠谷シャンツェ」を併設した。ここから船木和喜と斎藤浩哉が育ち、98年長野五輪団体で金メダルを獲得。船木はラージヒル個人も制して2冠となった。

ウイスキーのブレンダーでもあり「日本ウイスキーの父」と呼ばれる政孝。笠谷さんは「マッサン」からの贈り物を通じて世界へ羽ばたいた。ニッカでは東京本社広報部長。全日本スキー連盟では、兄昌生さん(2009年に74歳で死去)も任に当たったジャンプ部長などを歴任した。昌生さんも選手、指導者として活躍し、笠谷兄弟はジャンプ界における世界的存在だった。

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