【達川光男連載#54】美空ひばりさんがお墨付き「北別府くんは大物に」一方、私には…

投手王国の中心となってチームをけん引した北別府

【達川光男 人生珍プレー好プレー(54)】カープの生え抜き投手で初の名球会入りも果たした通算213勝の北別府学は「精密機械」と称された抜群のコントロールを誇っていました。よく制球力の良さを表現するのに「ボール1個分の出し入れ」などと言いますが、彼には「縫い目一つ分」のコントロールがありました。あまりに絶妙なコースに投げ分けるもんだから、審判までが「北別府の投げる試合で球審をするのは嫌だ」と漏らしていたほどです。

とにかくストイックな男でね。現役時代には商売道具である体のことを優先するため、ボールより重たいものを持たなかったそうです。我が子を抱っこしたことすらないとも聞きました。登板日ともなれば誰とも口を利かず、球場ではロッカーの3メートル以内に誰も近づけないようなオーラをというか、緊張感を醸していましたよ。

さすがに捕手の私とはサインの打ち合わせなどもあるから話をしましたが、ロッカーでは板ばりの上に座布団も敷かずに座って、精神集中するんです。ほかの選手が頼んでも先発当日はサインに応じることもなく、色紙が山積みになっていました。そのサイン色紙の山を見て「今日は北別府が先発か」と確認する選手までいたほどです。

特別にボールが速いわけではなく、マウンド上でも淡々と投げていたイメージをお持ちの方も多いかと思いますが、内に秘めた闘志には並々ならぬものがありました。強いチーム相手にも敢然と立ち向かう姿勢には「歌謡界の女王」と言われ、没後の1989年7月に国民栄誉賞を受賞した美空ひばりさんも一目置いていました。

ひばりさん自身は大のG党なんですが、北別府の目力やオーラ、闘志あふれる投球に感動し、かねて親交のあった金田留広さんを通じて「北別府くんに会いたい」とご指名を受けたんです。

捕手の私や若手投手らバッテリー組で、ひばり邸には何度かお呼ばれしました。ひばりさんは上機嫌で「北別府くん、あなたは必ず大物になるから頑張ってね」と。直後に留広さんが「タツはどう?」と聞いたら返す刀で「この子は大物にならない」と言われて、ずっこけたのもいい思い出です。

晩年に闘病生活が続いていた北別府には明日入院するというタイミングで共通の知り合いを通じて手紙をもらいました。「達川さん、私は自分一人で勝ってきたと勘違いしていました。ミットを目がけて投げていれば良かったということに気づきました。お礼もしなくてすいません。治って元気になったら食事をしましょう。おいしいものをごちそうします」といった文面でした。

残念ながら、その約束はかないませんでした。かく言う私も3年ほど前に膀胱がんを患い、元気ではありますが定期的な検査を受けています。あと2か月もすれば69歳。そういう年齢になったと言ってしまえばそれまでですが、北別府は逝くのが早すぎた。もう少し、昔のことでも振り返りながら、ゆっくり語り合いたかったです。

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