元代表キャプテン激白「棄権」真実、「4位」快挙と巨人「初出場」【「裸足サッカー」ワールドカップの大舞台へ】(3)

前回のカタール大会はメッシ率いるアルゼンチンの優勝で幕を閉じた。インドの初出場は…。(写真はイメージです) 撮影/原悦生(Sony α‐1)

サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回のテーマは、サッカー史に残る奇談。

■エースがシューズを脱いでプレー「8-1で大勝」

インドでは、サッカー選手の多くがホッケー選手でもあった。ホッケーは、カルカッタ以外の地域ではサッカーを大きくしのぐ人気競技だったが、インドのホッケー選手には裸足でプレーする者が多かった。1936年のベルリン・オリンピックのホッケー競技でインド(正確には英国領インド)は金メダルを獲得したのだが、そのときにこんなことがあった。

決勝戦の相手は地元ドイツ。このとき、インドの選手たちは全員シューズを履いてプレーしていた。インドは圧倒的な優勢で試合を進めていたのだが、後半、エースのディアン・チャンがシューズを脱いで裸足でプレーし始めると、彼の活躍で見る見るうちに点差が開き、8-1で大勝してしまったのである。

ちなみに、このオリンピックにはその前回、1932年のロサンゼルス・オリンピックで銀メダルを獲得した日本のホッケー代表も2大会連続で出場し、各国が22人の選手をエントリーする中、わずか15人の選手で奮闘し、アメリカに5-1、ハンガリーに3-1で勝ち、インドには0-9で敗れたものの、その後の順位決定戦ではデンマークに4-1で快勝して7位となっている。

■棄権の真実「W杯よりもオリンピック」を優先

「裸足でのプレーを認めなかったのでインドは棄権した」という話は、当時も世界を驚かせた。しかし現在では、それが正確ではなかったということが定説になっている。

当時のインド代表キャプテンだったセイレン・マンナが後に語ったところによると、インド協会はシューズ着用について選手たちに何の相談もしなかったというのだ。聞かれれば、選手達は喜んでシューズを履き、ワールドカップに出場することを選んだはずだと、彼は話している。

「インドサッカー協会はワールドカップよりオリンピックを優先させた。それが棄権の真の理由だ。1948年のオリンピックが『旧宗主国』の英国で行われたこともあり、オリンピックは当時のインドでは非常に大きな存在だった。それに対し、ワールドカップなど、一般のインド人にはほとんど知られていなかった。だから、わざわざブラジルまで出かけていく気など、当時の協会の幹部にはまったくなかったんだ」

その後、インドはオリンピックでは1952年のヘルシンキ大会(出場25チーム)に参加し、予備ラウンドでユーゴスラビアに1-10と大敗したが、続く1956年のメルボルン大会(出場11チーム)では1回戦で日本を2-0で下したオーストラリアと準々決勝で対戦。4-2で快勝して準決勝に進み、メダルは逃したものの最終的に4位という快挙を達成する。ちなみに、ヘルシンキ大会があまりに寒く、「裸足のインド」は凍えてしまったため、インドサッカー協会は以後、シューズ着用を義務づけたという。すなわち、1956年には「裸足」の選手はいなかったのだ。

■2026年大会で「巨人インド初出場」なるか

1950年代から1960年代は、インドサッカーの「黄金時代」といってよかった。アジア競技大会では1951年の第1回大会(ニューデリー)、1962年のジャカルタ(インドネシア)大会で優勝、1951年のアジア競技大会を契機に、1954年にアジアサッカー連盟(AFC)が誕生、活発な活動を始めたアジアのサッカーにおいて、インドは、間違いなくその初期の「巨人」だった。

しかし、ワールドカップでは、1950年大会を「棄権」してしまうと、その後はエントリーもせず、初めてのアジア予選に出場したのは1986年大会。1985年3月21日、ジャカルタでのアウェー、インドネシア戦。しかし、この頃のインド代表には昔日の輝きはなく、「インドのマラドーナ」と呼ばれたクリシャヌ・デイが前半34分に先制点を挙げたものの、前半のうちに同点とされ、後半早々に逆転ゴールを許して1-2で敗れた。以後、インドのワールドカップ出場はまだない。

現在進行中の2026年ワールドカップ・アジア2次予選ではA組に入り、4戦して1勝1分け2敗。初戦、アウェーでクェートに1-0の勝利を収めたが、その後はカタールに0-3で敗れ、アフガニスタンとは1分け1敗。勝ち点4で一応「2位」にいるものの、6月にはカタールとのアウェーゲーム、クウェートとのホームゲームを控え、予断を許さない状況だ。

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