B29爆撃機の佐世保海軍工廠空襲 惨状を手記に 「修羅場」生き抜いた 故小林さん

 1945年6月の佐世保空襲の2カ月以上前に米軍のB29爆撃機1機が佐世保海軍工廠(こうしょう)を空襲し、大勢の作業員が犠牲になっていた。大けがを負いながらも「修羅場」を生き抜いた故・小林辰一さん=95年に82歳で死去=が晩年、手記に惨状をつづっていた。佐世保市文化財課は「海軍工廠の空襲で残っている資料は少ない。生々しい記述も多く、非常に貴重」としている。

1945年4月8日に起こった佐世保海軍工廠への空襲体験をつづった故小林さんの手記

 小林さんは東彼日宇村(現長崎県佐世保市)で生まれ、15歳で海軍工廠本科課程に入学。空襲当時は32歳だった。手記は約1万1千字に及び、海軍工廠に勤務する立場から見た太平洋戦争の戦況などが、事細かにつづられていた。
 〈修理のためにドック入りする艦船を目のあたりにするわけで、戦況不利という事実が否応(いやおう)なく見る事が出来る〉
 4月8日、空襲当日。日曜日で、勤務する鋳造工場には通常の4分の1しか作業員はいなかったという。
 〈数時間後に阿修羅(あしゅら)の恐るべき職場となる事を夢想だにもせず、今日も無事に銃後の戦力増強にと一心に働いていた〉
 一瞬、耳をつんざくごう音と、体が吹き飛ぶような空気圧を感じた。
 〈爆弾が鋳造本工場を直撃したものだと直感した〉
 激痛を感じ右腕を見ると、肘辺りの肉がえぐられ、血が噴き出していた。下半身の肉塊はこぼれ落ち、ズボンは真っ赤に染まっていた。
 医務室からも軍医の叫び声や負傷者のうめき声が聞こえ「修羅場」だった。治療後に海軍病院に運ばれ3日間入院した後、共済病院に転院。約1カ月半後、退院した。
 退院後、工場には約130人が出勤しており、うち47人が即死したと上司から聞かされた。負傷者は70人。本工場で作業していた人のほとんどが被害に遭っていた。
 〈尊い命を奪う人殺しは、永久に地球から抹殺せねばならない。戦争の惨事は吾々の代で結構、次代の子、孫には明るい世界の平和の中で過ごさせたい〉

 67歳だった80年8月15日に書いていた。子どもたちがデータに起こした手記と海軍工廠の身分証明書、海軍工員手帳を合わせ、昨年、佐世保空襲犠牲者遺族会に寄贈。後にNPO法人「佐世保空襲を語り継ぐ会」が引き取った。

佐世保海軍工廠の身分証明書。写真は当時の小林辰一さん

 市文化財課の髙橋央輝(ひろき)主事(28)によると、旧海軍の資料と照らし合わせても事実関係はほぼ合致。「被害状況が少ない空襲は記録に残りづらい。佐世保の歴史を理解する上でとても重要だ」と指摘した。
 長男の章人さん(82)=山口県下関市=は「晩年になって戦争体験を残したいと思ったのだろう」とおもんぱかる。小林さんは戦後、工廠時代の技術を生かし、福岡県にある製鋼関連の企業に就職。武骨な人柄で、体験を断片的に話すことはあったが、詳細は語らなかったという。
 章人さんも3歳のころ、佐世保空襲を体験した。「父が亡くなった時と同じ年になった。私も、子や孫に平和な状態で過ごしてもらいたいと願っている」。穏やかな目で、亡き父に思いをはせた。

© 株式会社長崎新聞社