『人間の境界』アグニエシュカ・ホランド監督 世界は危険な方向に進んでいる【Director’s Interview Vol.402】

ベラルーシ政府がEUに混乱を引き起こす狙いで大勢の難民をポーランド国境へと移送する<人間兵器>とよばれる策略。本作『人間の境界』では、その策略に翻弄された人々の過酷な運命を、シリア人難民家族、支援活動家、国境警備隊の青年など複数の視点から群像劇として描き出す。監督は、3度のオスカーノミネート歴を持ち『ソハの地下水道』(11)『太陽と月に背いて』(95)など数々の名作を世に送り出してきたポーランドの巨匠アグニエシュカ・ホランド。

友人のカメラマングループと国境の写真を撮影するなど難民をめぐる問題を追っていたホランドは、政府が国境を閉鎖したことで情報が遮断された2021年に「国境に行くことができなくても、私は映画を作ることができる。政府が隠そうとしたものを、映画で明かそう」と本作の制作を決意。政府や右派勢力からの攻撃を避けるためスケジュールや撮影場所は極秘裏のうちに、24日間という驚異の猛スピードで撮影を敢行。隠蔽されかけた国境の真実を、大量のインタビューや資料に基づき、心を揺さぶる人間ドラマとして執念の映像化を果たした。

ところが当時のポーランド政権は本作を激しく非難、公開劇場に対して上映前に「この映画は事実と異なる」という政府作成のPR動画を流すよう命じるなど異例の攻撃を仕掛けた。しかし、ほとんどの独立系映画館がその命令を拒否。ヨーロッパ映画監督連盟(FERA)をはじめ多数の映画人がホランド監督の支持を表明し、政府vs映画という表現を巡る闘いが世界的な注目を集めた。

政府からの猛批判は監督が訴訟を示唆するまでに発展し、宣伝会社のSNSに誹謗中傷が寄せられるなど監督自身が身の危険を覚えるほど論争が激化する中、ポーランド国内では公開されるや2週連続トップの観客動員を記録。ポーランド映画として当時年間最高となるオープニング成績をたたき出し、異例の大ヒットとなった。

御年75歳のアグニエシュカ・ホランド監督。彼女はいかにしてこのパワフルな映画を作り上げたのか? 話を伺った。

『人間の境界』あらすじ

「ベラルーシを経由してポーランド国境を渡れば、安全にヨーロッパに入ることができる」という情報を信じて祖国を脱出した、幼い子どもを連れたシリア人家族。しかし、亡命を求め国境の森までたどり着いた彼らを待ち受けていたのは、武装した国境警備隊だった…。

“映画の持つ力”に疑念を抱いていた


Q:ニュースだけでは伝わってこない事実に動揺を覚えつつも、その事実を映画が教えてくれた意義を強く感じます。社会性を持った映画を長年手掛けられてきましたが、ご自身は映画の持つ力を実感されていますか?

ホランド:実はここ10年ほど、“映画の持つ力”に対して疑念を抱いていました。映画は、内省的に自分を見つめる機会を与えることか、娯楽を与えることしか出来ないのではないかと。そんな思いの中で作った『人間の境界』でしたが、観客のリアクションはとてもパワフルなものでした。そのおかげで、改めて“映画の持つ力”を信じられるようになりました。映画が世界の状況を変えるとまでは思ってはいませんでしたが、観てくださった方々が何か変わってくれればと希望は抱いていました。正にこの映画でそれが叶ったのです。

『人間の境界』©2023 Metro Lato Sp. z o.o., Blick Productions SAS, Marlene Film Production s.r.o., Beluga Tree SA, Canal+ Polska S.A., dFlights Sp. z o.o., Česká televize, Mazovia Institute of Culture

この映画を携えて母国ポーランドをはじめヨーロッパの様々な映画祭に行きましたが、どこに行っても観客のリアクションはとても感情的で、皆さん自分事として捉えてくださった。自分も何か行動せねばと肌で感じてくださったのです。本当に嬉しくて胸がいっぱいになりました。本作は色んな映画祭でたくさんの観客賞を受賞しました。二時間半もある白黒映画で重い題材にも関わらず、それでも観客の皆さんが支持してくれた。皆さん、何かを感じてくださったのだと思います。

世界は危険な方向に進んでいる


Q:難民の救助に手を貸さない友人や難民の受け入れに不安を覚える妊婦など、多様な視点が描かれるのも印象的です。そういった層はポーランドでは多いのでしょうか。

ホランド:当時は政府によるプロパガンダがひどく、難民に対しての不安が広がっていました。ポーランドに限らず、ハンガリーやイタリアなどでも、難民を恐怖の対象としてプロパガンダを打ち出していました。難民が来ることによって、自分たちの生活が脅かされるかもしれない、仕事を失うかもしれない、そういった潜在的な恐怖は誰もが持っているもの。プロパガンダはまさにそこに付け込んでいました。

一方で、人の共感や思いやり、エンパシーを利用したプロパガンダを打ち出すこともあります。ウクライナからの難民の受け入れがその分かりやすい例で、彼らは友好的にたくさん受け入れられています。政治家は恐怖心とエンパシーをうまく使い分けます。2015年のポーランドでの選挙では、シリアの難民問題を使ったプロパガンダで恐怖心を煽った方が勝利しました。人種差別的な言葉を駆使し、難民は病原菌を持ち込む危険な存在だと煽り、65%いた難民受入れ支持層はたった2ヶ月で30%にまで落ち込みました。

自分と異なるものに対する恐怖心があることは皆同じです。突然やってきた異文化圏の人々を受け入れることは、容易いことではありません。ただし、それを解決することは決して不可能ではない。そのためには、政治的影響力を持つ人々や、宗教の各宗派、人道支援団体、教育機関が一つになる必要がある。それにより今ある諸問題も解決に向かうのではないかと考えています。

『人間の境界』©2023 Metro Lato Sp. z o.o., Blick Productions SAS, Marlene Film Production s.r.o., Beluga Tree SA, Canal+ Polska S.A., dFlights Sp. z o.o., Česká televize, Mazovia Institute of Culture

Q:取り調べをする警察官など全体主義を思い出させる描写もありますが、一方でフォローしてくれる女性警官も存在していて、救いもあります。第二次大戦中や直後と比べると少しは良くなっていると感じますか。

ホランド:あまり希望は持っていませんね(苦笑)。世界は危険な方向に進んでいると思います。ジョージ・オーウェルが「モンスターたちが世界を導くのだ」と言っていたように、まさにそういうモンスターが世界中で頭をもたげ始めている。しかもモンスターたちは人民の支持を得ている。劇中では、サディスティックな警察官と、シンパシーを感じさせる女性警官をそれぞれ描きましたが、そういった分断は世界中で起こっている。ここポーランドでもそうだし、アメリカでもそう、ブレグジットなどもわかりやすい例ですね。国や地域で極端な形の二極化が進んでしまっている。私自身の人生でこれほどまでに分断を感じたことありません。

気候変動やカタストロフィーに関する問題もあり、それに対する考えも様々。そういった問題の答えを見つけることは難しいですが、とにかく落ち着いて、皆で一緒に科学的に分析をしながら解決策を見つけていくしかない。しかし今、人々は科学やコラボレーションを拒否してしまった。人類が目覚めて気づくためには、もしかしたらまた大きな戦争が必要なのかもしれません。もちろん絶対に起こって欲しくはないですが…。

私は希望を捨てていません


Q:世界が抱える問題は複雑で簡単には解決しませんが、今の世界はロシアの大統領たった一人に振り回されている部分もあります。世界の多くの人は平和で健やかな暮らしを望んでいるはずなのに、なぜ人類は不幸な道へ進んでしまうのでしょうか?

ホランド:やはり“現代”という時代もあると思います。いろんなことが起きていて、それに対する“なぜ?”という気持ちにポピュリストたちがつけ込んでくる。「こうすればすぐ不安は解決するよ」「こういうシンプルな解決案があるよ」と。しかし私たちが直面している問題は、決してシンプルに解決できるようなものではありません。複雑だからこそ潜在的な恐怖を感じてしまう。怖くて困難だと思えば思うほど、そこにポピュリストたちつけ込んでくる。

世界の皆さんには目覚め気づいて欲しいと思っているし、その希望を私は捨てていません。そのためにはどこに問題があるのかをきちんと把握する必要がある。問題は他人だけにあるわけではない。それぞれが少しずつ異なる中で、どうやって調和を見出すかを考えることが重要なのです。

『人間の境界』©2023 Metro Lato Sp. z o.o., Blick Productions SAS, Marlene Film Production s.r.o., Beluga Tree SA, Canal+ Polska S.A., dFlights Sp. z o.o., Česká televize, Mazovia Institute of Culture

Q:日本の観客に向けてメッセージをお願いします。

ホランド:これから観ていただく皆さんには、是非心をオープンにして感じて欲しいです。作品の持つメッセージ、そして簡単ではない現実を受け入れてもらいつつも、そこに希望は失われていないことも感じて欲しい。この映画には、自分の生活を犠牲にしてまで他者を助けようとする人々が出てきます。そこから何かを感じてくれたら嬉しいです。

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監督:アグニエシュカ・ホランド

1948 年、ポーランドのワルシャワ生まれ。1972 年にプラハ芸術アカデミーを卒業。クシシュトフ・ザヌッシの助監督を務め、アンジェイ・ワイダに師事した。これまで 1985 年に『Angry Harvest(英題)』、1990 年に『ヨーロッパ、ヨーロッパ~僕を愛したふたつの国~』、 2012 年に『ソハの地下水道』でアカデミー賞に3度ノミネートされている。これまでの主な監督作

品に『オリヴィエ、オリヴィエ』(1992)、『秘密の花園』(1993)、『太陽と月に背いて』(1995)、『Julie Walking Home(原題)』(2001)、『ポコット動物たちの復讐』(2017)、『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(2019)『Charlatan(原題)』 (2020)など。また、『Treme(原題)』 (2010-13)や『ハウス・オブ・カード 野望の階段』(2013-18)といった人気 TV ドラマシリーズの監督も務めている。

取材・文: 香田史生

CINEMOREの編集部員兼ライター。映画のめざめは『グーニーズ』と『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』。最近のお気に入りは、黒澤明や小津安二郎など4Kデジタルリマスターのクラシック作品。

『人間の境界』

5月3日(金・祝)TOHOシネマズ シャンテほか全国順次ロードショー

配給:トランスフォーマー

©2023 Metro Lato Sp. z o.o., Blick Productions SAS, Marlene Film Production s.r.o., Beluga Tree SA, Canal+ Polska S.A., dFlights Sp. z o.o., Česká televize, Mazovia Institute of Culture

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