苛立ちや苦しみも「いいこと」に変えられる…30代半ばから病と闘い続けた哲学者〈ニーチェ〉から学ぶ「病気の活かし方」とは

(※写真はイメージです/PIXTA)

当たり前ですが、病気にかかってうれしい人はいないでしょう。しかし病気を完全に避けることは難しく、年を取ればそのリスクは格段に増えます。病気に対して何か別の見方はできないのでしょうか? 今回は、小川仁志氏の著書『60歳からの哲学 いつまでも楽しく生きるための教養』(彩図社)より、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900)の語る病気論を解説し、その新たな見方に迫ります。

病気だからこそ、想像で気持ちを楽に

ニーチェは別に病気論という本や論文を書いているわけではないのですが、病気についてたびたび言及しています。それは彼自身が重い病気にさいなまれ、いわば病気と共存してきたからにほかなりません。

彼はもともと片頭痛や胃痛に悩まされていました。しかしついにその症状が悪化し、大学教授としての仕事もできなくなってしまったのです。そのため30代半ばで療養生活を送ることになります。そうして病と闘いながら、執筆活動を続けました。

病気に対するニーチェの言葉が両義的なのはそのせいだと思われます。当然病気を恨んでもいたでしょうが、それだけでは精神が持たなかったのだと思います。

たとえば彼はこんなふうにいっています。

だから病人には、それを持てば苦痛が和らげられるように思えるあの別種の娯しみを勧めるがよい。すなわち、友や敵に示し得る親切や優しさについて省察することである。(『人間的、あまりに人間的』ちくま学芸文庫、2巻P394)

ニーチェは「病人の娯しみ」という逆説的な表現で、むしろ「病気だからこそ想像によって気持ちを楽にすることができる」と主張します。

ここでニーチェが挙げているのは、友や敵に示し得る親切や優しさです。病気だからこそ、友達のことを思い、あるいは敵やライバルのことをあえて肯定的に捉えるのです。そうすれば、気が紛れるということでしょう。

病気で寝込んでいる時、私たちにできるのは想像だけです。いや、病気でやれることが制限されているからこそ想像や空想、そして妄想に時間を費やせるのです。それに、制限されているからこそ、想像力が研ぎ澄まされるのかもしれません。だから「病人の娯しみ」なわけです。普段は味わえない特権だといってもいいでしょう。しかもその想像が豊かであればあるほど、たとえ一時的にだとしても病気の苦しみを忘れることができます。

一般に病人は、怒りや苛立ちを別の方向に向けることですっきりしようとします。イライラする時、モノに当たるのと同じです。ところが問題は、何かに当たるとすっきりしますが、モノが壊れたり、そのモノに当たったことに罪悪感を覚えたりして、新たな苦しみにさいなまれる点です。

ニーチェはそれを「別の悪魔にとりつかれる」と表現しています。ならば、このロジックを活かし、いいことに目を向ければいいのです。そうすれば、病気の苛立ちや苦しみは、いいことに転化するはずです。

病気になって初めて、日常の深刻さがわかる

そう、病気はマイナスばかりではないのです。病気でも楽しめることはたくさんあります。

なんとニーチェはそれにとどまらず、病気には価値さえあるというのです。その名も「病気の価値」というアフォリズム(格言)があります。若干長いですが、切れ目がないのでそのまま紹介しましょう。

病気でねている人は、ときとして、彼が通常自分の職務・仕事または社交という病気にかかっており、そういうものによって自己に対する思慮をすっかり失っていたということを見抜く、彼はこういう智慧を、病気が彼に強いる閑暇から得るのである。(『人間的、あまりに人間的』ちくま学芸、2巻P302)

これもまた痛烈ですね。「病気で寝込んで初めて、普段自分が日常という病気にかかっていたことに気づく」というわけです。しかも自分をいたわることを忘れていたと。それこそが病気の価値だというのです。

たしかに毎日あくせく働いて、時にそのせいで病気になったりして、それで初めて自分の日常を振り返ります。私も同じことを感じたことがあります。がむしゃらに突っ走ってきて、ある日病気で倒れたのです。そうして気づいたのは、かかった病気の深刻さではなく、病的な日常の深刻さでした。そうして日常を改めた結果、病気もよくなりました。

生活習慣や仕事のやり方を改めるだけで、多くの病気は解消されるような気がします。よくいわれることですが、病気は心身のSOSなのです。そしてそれは皮肉なことに病気にならないとわからない。それが人間なのだと思います。

年を取ればより病気に敏感になると思いますが、それでも病気には種類や程度がありますから、その都度原因が違って、毎回反省することになるのです。

病気によって精神が解放される

ニーチェが指摘しているのは、病気になったことには意味があるということです。

でも、彼にいわせると、病気にはもっと積極的な意義があります。なんとそれは精神の解放です。ニーチェは長年自分を苦しめてきた病気に感謝さえしているのです。

重い病衰の時期がもたらした収穫は、今日なお私には汲みつくせないほどのものだが、そういう時期に感謝の念なしに別れを告げたくない私の気持ちは、おわかりだろう。(『悦ばしき知識』ちくま学芸文庫、P12)

重い病気の時期がもたらした収穫とは何か? ニーチェは普通の人ではありませんでした。いわずと知れた哲学者です。そんなニーチェにいわせると、哲学者とは霊と肉とを分けることができない存在なのです。つまり、肉体と精神は一体化しており、思考は肉体から生じるというわけです。

快適な時は明るいテーマについて思考するでしょうし、苦しい時はそれが原因となって、苦しさをテーマにした思考を行います。

ニーチェは生を重視した哲学者でした。生の哲学の先駆者とも称されるほどです。だから抽象的な思考にはなんの意味もないと考え、人生の中で私たちが経験する現実を重視したのです。そうして現実について考える機会を持てるということが、まさに重い病気の時期がもたらした収穫にほかなりません。

ニーチェの哲学が人気なのは、そのリアリティにあります。難しい表現を使っていても、そこには必ず現実が透けて見えます。すべてが人間ドラマなのです。生まれてきて、年老いて、病気になり、やがて死んでいく。生老病死というドラマ。

現に彼は、人は病気無しで生きられるのかとも問うています。もちろん答えはノーです。人間は必ず病気になります。時に病気は大いなる苦痛をもたらすのです。その大いなる苦痛こそ「精神の最後の解放者」であると喝破するのです。精神を本物にするということでしょう。

言い換えると、人生に正直になるということかもしれません。ニーチェ自身は「われわれを深める」と表現しています。

重い病気になった時、人は本当に大事なものだけに向き合おうとします。なぜか? それは死に直面するからです。どんな病気も、その先で死につながっています。風邪だってこじらせれば死に至ります。ほんの少しのきっかけで、私たちは死へと追いやられる可能性がある。それはあのコロナ禍を経験した人間であれば皆、肌感覚として持っている実感だと思います。だから私たちは、人生を見つめ直し、本当に大事なものを見極めようとするのです。それは必然的に私たちの思考を深いものにし、人間性を深める結果となります。

ニーチェのいう「われわれを深める」とはそういうことなのではないでしょうか。これはいくつになっても同じだと思います。年を取って病気をした時は、なおさら死と結びつけることが多くなります。でもそれは決してネガティブなことではなく、自分を深めることになる。そう思えれば、病気になったことを悔いるより、もっと前向きに与えられた時間を濃密に生きることができるのではないでしょうか。

病魔に襲われ、55年という決して長くはない人生を濃密に生ききった偉大な哲学者ニーチェと同じように。これから次々と襲い掛かってくるであろう病気を前に、心の準備はできたでしょうか。ニーチェが教えてくれるのは、病気の治し方でもなければ、我慢の仕方でもありません。あくまで病気の最高の活かし方なのです。

小川仁志

山口大学国際総合科学部教授

哲学者

© 株式会社幻冬舎ゴールドオンライン