代表選手不在の柔道全日本選手権 令和に問われる変化、「エベレストより高い富士山」をもう一度

1985年の全日本柔道選手権で9連覇した山下泰裕(左)と斉藤仁【写真:産経新聞社】

スポーツライター・荻島弘一氏のコラム

「エベレストよりも高い富士山」――。4月29日に東京・日本武道館で行われた柔道の全日本選手権。かつて、そう呼ばれたことがある。五輪や世界選手権の金メダルよりも難しい全日本の優勝。日本一にならないまま84年ロサンゼルス五輪95キロ超級で金メダルを獲得した斉藤仁が、父親から告げられた「いい気になるな。エベレストに登ったかもしれないが、富士山には登っていない」のエピソードがもとだ。

84年大会までは、五輪に最重量の95キロ超級と体重制限のない無差別級があった。斉藤は無差別級の山下泰裕(現・JOC会長)とともに金メダルを手にした。しかし、全日本の優勝者は1人。翌85年、2人は3年連続決勝で対戦した。五輪王者同士の初対決は旗判定で9連覇を達成した山下が209連勝のまま引退。斉藤の全日本優勝はケガもあって88年の1回だけで「富士山は、やっぱりエベレストより高いってことよ」と漏らした。15年に54歳で亡くなった斉藤の言葉が、頭から離れることがはない。

柔道の全日本選手権が始まったのは1948年。五輪競技となる64年東京大会よりも16年も前だ。65年からは東京五輪のために建設された「聖地」日本武道館での開催となり、75年からは開催日が天皇誕生日(現・昭和の日)の4月29日に固定された。以来、半世紀近く「4.29日本武道館」(新型コロナ禍の20、21年を除く)が続く。

もともと、柔道は体重無差別で争うもの。「柔よく剛を制す」は柔道の真理で「小よく大を制す」ところに醍醐味でもある。当初、五輪や世界選手権の体重別競技は受け入れられず、全日本こそが唯一無二の大会だった。

64年に体重78キロで全日本王者になった「昭和の三四郎」岡野功は、同年の東京五輪中量級金メダルを「通過点」と話し「無差別こそが柔道」と言い切った。72年に岡野以来の中量級全日本王者になり、同年のミュンヘン五輪で優勝した関根忍は「金メダルは全日本優勝のおまけ」。敗者復活戦(当時)を勝ち上がっての金メダルだったこともあり「五輪はこりごり、2度と出たくないと思った」とまで話していた。

伝説は続く。90年には前年の世界選手権71キロ級優勝の「平成の三四郎」古賀稔彦が出場。100キロ超の相手を次々と破った。決勝では95キロ超級世界王者の小川直也に敗れたものの、準優勝。観客席の通路を女性ファンが埋めた。94年決勝では優勝に執念を燃やす金野潤が五輪78キロ級金メダリストの吉田秀彦と対戦。壮絶な死闘が、武道館を凍り付かせた。その後も篠原信一、井上康生、鈴木桂治、石井慧ら五輪、世界王者が大会を沸かせた。

優勝した選手からは「この大会には他を捨ててでも挑戦する価値がある」の声

大会は重量級の日本代表選手最終選考会も兼ねて行われていた。しかし、代表決定の時期を早くしたため、前回の東京五輪以降は「選考会」の対象外。今回は世界選手権が5月に行われるため、こちらの代表も欠場した。過去5年で優勝しているウルフ・アロン、斉藤立、太田彪雅がそろって出場しなかった。

五輪や世界選手権前の貴重な調整時期に負荷のかかる大会への出場は避けたい。ケガのリスクもある。以前は秋に行われていた世界選手権は昨年、今年と5月の開催。世界の柔道カレンダーが変わってきた。さらに、日本代表を早期に決定する現状では、今後もトップ選手の出場は見込めない。エベレストの頂上を目指す選手たちは、富士山登山を回避するようになる。

もちろん、それでも大会の歴史は紡がれていくし、伝統や重みは変わらない。16年リオデジャネイロ五輪100キロ級銅メダルの羽賀龍之介は強化指定選手を辞退してまで全日本にかけてきた。4年ぶりの優勝を逃した33歳は「この大会には他を捨ててでも挑戦する価値がある」と話した。5回目の優勝を目指すも準決勝で敗退した王子谷剛志も「全日本は最高の大会。この大会が自分を育ててくれた」と言った。

柔道家にとって特別な大会ではあるが、一般的には五輪や世界選手権代表が出場しない大会を「体重無差別の日本一決定戦」とするのには違和感がある。今大会から国際ルールの延長戦を廃止して旗による判定を復活させるなど独自色を出すために工夫もしているが、付け焼刃的に思えないでもない。

全日本柔道連盟(全柔連)では、代表選手が出場できるように日程再考の話も出ているとはいうが、ハードルは高い。日本武道館はコンサート会場などで人気も高く、他の日程で押さえるのは難しいという。「4.29」に全国から柔道家が集まるなど「年中行事」として定着しているのも事実。日程変更には反発も起こりそうだ。

何よりも、大会は全日本柔道連盟と講道館の共催。全柔連の意向だけで動くことはできない。全柔連の金野潤強化委員長も「今後の大会については考えていかないといけないけれど、なかなか難しい問題」と苦しい胸の内を明かした。

同様に天皇杯が下賜されるサッカー全日本選手権は国際カレンダーを考慮

80年代から90年代、山下対斉藤、小川対古賀などで大会は盛り上がった。社会的な関心事となり新聞やテレビが大々的に報道。武道館はスタンド最上段までファンで埋まった。残念ながらこの日は、ガラガラ。柔道人口が減少する中、全柔連は普及にも力を入れる。全日本選手権が社会的に注目されれば、人気にもつながるのだが。

柔道の全日本選手権同様に天皇杯が下賜されているサッカーの全日本選手権は、国際カレンダーも考慮して「決勝は1月1日」の規定を削除した。歴史ある大会だからこそ、その歴史を守るために変わらなければならないこともある。新しい時代に合った全日本選手権。また、あの張り詰めた雰囲気の中で試合が行われる「エベレストよりも高い富士山」を見たい。

荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima

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