八神純子、日本での活動再開で転機となったNHK『SONGS』出演とSHOW-YA主催の『NAONのYAON』

八神純子 撮影:有坂政晴

『みずいろの雨』『パープルタウン』といったポップスで日本のニューミュージックシーンに登場した八神純子さん。聴く人を魅了するハイトーンボイスは今も健在だ。ブレイクから活動休止を経て、また再びステージへ。デビューから45年間にも渡る音楽人生の転機とは?【第3回/全4回】

八神さんの人生の転機として欠かせないエピソードは、海外へ移住であろう。音楽活動が順風満帆な中、渡米したのには理由があった。

20歳という若さでデビューした八神さん。周りの大人の中で、自分の意見を言うと生意気ととらえられたこともあったという。

「シンガーソングライターのように自分で作品を作っている人たちは、自分の作品を守らなくてはいけないっていう強い気持ちがあったと思うんです。だからストレートに気持ちを伝えることで、周りからは生意気って思われたと感じますね。
そういうこともあって事務所からは、あまり外の人と接触しないようにとか色々と言われていました。それが窮屈だったので、最初に所属していた事務所を離れたんです。事務所には所属して5年で辞めて、アメリカに行ったのはデビューしてから10年目です。どれくらいで帰ってこようとか、なにも考えずに行ったんです。若いってすごいですよね(笑)。怖さや不安なんて1ミリもなかったですね」

日本での表立った活動がなかったため、活動休止と思われることもあったが、アメリカでは音楽に触れる生活を送っていた。

「アメリカではアーティストのバッキングコーラスのバイトをしていました。最初はスタジオ経営もしていたので、レコーディングの手伝いもしていたんです。スタジオに通う生活をしていたので音楽はいつも身近でしたね。日本から連絡があれば返していましたが、こちらから連絡することはほぼ皆無でした。子どもの頃は、人前に出るのが恥ずかしいって感じるタイプだったのに、オールオアナッシングな部分もありましたね。だからアメリカ生活にピシッと切り替えることが上手くできたのだと思います」

英語を上達させたかったら恥をかくこと

母国を離れた生活は、心細くなかったのだろうか。八神さんは「アメリカで生活している間は、日本のことが気にならなかった」と語る。

「アメリカにいると、日本の情報が入ってこないからわからないじゃないですか。どんなアーティストが活躍しているのかもぜんぜん知りませんでした。
“現地では日本人とのお付き合いをしない“って決めていたので、異なる環境で生活するだけで精一杯。日本人と集まっていると、日本語ばかり話すから英語が上手くならないと思ったんです。日本語の放送も観ないようにしていましたね。テレビも夢中になって海外ドラマを観ていました。そういうものを観ているうちに、英語もどんどん上手くなっていったんです」

今では字幕なしで映画もわかるという八神さん。移住前の語学レベルはどれくらいだったのだろうか。

「事前に英会話の準備は、まったくせずに移住しました。事前に勉強しても、そんなに意味がないと思います。当たって砕けろの精神です。語学を学ぼうと思うのなら、冷や汗をかくしかないんです。みんなが笑っているところで、自分1人だけが分からずに孤独を感じる。そういう経験をしないと、語学は身につかないと思います」

移住後も、アメリカと日本を行き来しながら定期コンサートを続けていた。しかし、2000年代になると、ほぼ活動休止状態に突入する。また再び歌うようになったのは、東日本大震災の影響だった。

「震災のニュースは、海外でもリアルタイムでトップニュースで扱われていました。災害の大きさを見て、日本でもう一度歌いたいって感じたんです。自分が音楽で何かできることがないかって考えました。その場合、もう少し腰を据えて活動をやらなければとも思いました。それがものすごく大きなきっかけでしたね」

日本でまた再び活動するようになったのは、コンサートと音楽番組への出演がきっかけだった。

「2011年5月に日本でコンサートをやる予定でした。震災後は、その機会を逃すともう日本で歌うことはないだろうなって感じていました。同時期に、NHK『SONGS』に出演したのも大きかったです。
テレビはあまり好きじゃなかったんですけど、音楽仲間から“『SONGS』に出ないと、もう日本で歌う機会はないじゃないかな”って言われたんです。周りから断らない方が良いと言われたこともあって、出演を前向きに考えられた。『SONGS』では、アレンジも全部新しく作り直してくれるし、バックバンドも好きな編成で歌わせてもらえる。これはもう“やるしかない! “って気合が入りました」

SHOW-YA主催の『NAONのYAON』に出演

八神さんのアーティスト人生にとって、変化ともいえる出来事が起きた。

「『世界歌謡祭』で歌った時に感じたのは、プロの歌手はマイクなしでも部屋中に声が響き渡る。“これがプロなのだ”って圧倒された。でもプロデビューした時に、その時の歌い方は徹底的に直された。ささやくように歌う歌唱法に変えられたんです。でもそれは私が歌いたい曲ではなかった。『I'm A Woman』というロック調の曲を書いた時に、SHOW-YA主催の『NAONのYAON』に出たんです。それまで、ささやくように歌っていて、欲求不満が溜っていた(笑)。そこで、『I'm A Woman』を歌ってスカっとした。こういう曲をやっていきたいなって覚悟ができました」

今のようなパワフルなボーカルスタイルに辿り着くには紆余曲折があった。

「でも海外で暮らしたことによって、自分の表現力が足りないって気がついたんです。日本のポップスの歌い方は、一本調子で変わらない。だけど、アメリカのアーティストはスティーヴィー・ワンダーのように、一人のボーカルが起承転結をすべて表現してしまう。同じサビでも、ボーカルで盛り上げることができる。そういうシンガーとしての実力を身に着けたいって感じました。
以前はアレンジの部分は編曲家に任せていたんですけど、アメリカに移住してからはアレンジも自分でやるようになったんです。バッキングコーラスも多重録音で入れて声に厚みをつけるようになりました。
東日本大震災後の被災地に歌を届ける活動の中で、歌唱力を誇ったり、大きな声で歌えば良い訳ではないって思いましたね。歌唱力ではない、人に伝わる歌や心に届く歌があるって勉強させられました」

デビュー45年目を迎えている八神さん。いつまでも挑戦し続ける姿勢こそが、彼女の活力なのかもしれない。

八神純子(やがみ・じゅんこ)
1958年1月5日生。愛知県出身。シンガーソングライター。高校在学中からコンテストに出演し、1974年『第8回ヤマハポピュラーソングコンテスト』に出場し優秀曲賞に入賞。1978年『思い出は美しすぎて』でプロデビュー。以来、『みずいろの雨』『パープルタウン ~You Oughta Know By Now~』などヒット曲を生みだす。1986年にアメリカに移住。現在も海外と日本を行き来しながら音楽活動を続けている。

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