【追悼】フジコ・ヘミングさん 92歳で死去「人を傷つけることはどんな嫌な奴でも黙って言わない」かつて疎開した岡山で紡いだ言葉【魂のピアニスト】

「魂のピアニスト」と世界中で賞賛されるフジコ・ヘミングさんが4月21日未明、92歳で亡くなったことが、5月2日、公式サイトで発表されました。

一般財団法人フジコ・ヘミング財団によりますと、2023年11月に自宅で転倒したあと、治療とリハビリに励み順調な経過をたどっていたところ、2024年3月に行った検査の結果、すい臓がんと診断されました。療養していましたが、4月21日に容体が急変し亡くなったということです。

フジコ・ヘミングさんは、2023年6月、岡山でコンサートを開きました。岡山での暮らしや平和への思いについてうかがいました。情感あふれるフジコさんの演奏のように紡ぎだされた言葉の数々を振り返ります。

その他の記事は下記のリンク、または関連リンクからご覧になれます。

・【追悼】フジコ・ヘミングさん「私は太い指、これがいい」いつまでも心に響く“ラ・カンパネラ”【魂のピアニスト】

(2023年8月10日の記事より再掲)
太平洋戦争末期、ここ岡山に1人の少女が疎開していました。情感あふれる演奏で人々を魅了し「魂のピアニスト」として世界的に知られるフジコ・ヘミングさんです。

78回目の終戦の日を前に、フジコさんに当時の記憶、そして、いま伝えたい想いをうかがいました。

「魂のピアニスト」フジコ・ヘミングと “戦争の記憶”

(フジコ・ヘミングさん)
「一番日本が貧乏だったとき、上野の音楽学校に行っていましたけど、東京大空襲の後に上野の駅に家族連れで何十人、何百人と真っ黒な顔して、目だけがぎょろぎょろ光っていた。戦争でみんなそういう風になっちゃったんでしょう」

「罪もない人がみんな、家を焼け出されて行くところがなくて、トンネルの中に家族連れで住んで。そういうのを見たから」

フジコ・ヘミングさんは、日本人のピアニストの母、スウェーデン人の画家で建築家の父の間にベルリンで生まれました。幼い頃、一家で東京に移り住み母の手ほどきでピアノを始め、その才能が花開きました。

太平洋戦争末期、東京はたびたび空襲に見舞われます。

フジコ・ヘミング 疎開先・岡山での「青春」

フジコさんは、戦火を逃れ、親戚を頼って岡山県総社市に疎開しました。【画像】は、78年前にフジコさんが疎開先の小学校で弾いたピアノです。当時「敵国の音楽の演奏」は憚られる時代。フジコさんは、毎日ピアノに向かっていました。すると…。

(フジコ・ヘミングさん)
「いろんな兵隊さんが、私のピアノを聴いて感激して。ある方は教室に入ってきて黒板に『愛しのフジちゃん、ピアノが素晴らしい』って白墨で書いてくれたのを思い出します」

「『彼女は外国の音楽をやっているのか。結構いいね』と思ったらしくて、ある時家にいたら素晴らしい合唱が聞こえてきたんです」

「『え?』と思って窓から見たら、兵隊さんが合唱しながら行進しているの。サンタルチアの(合唱)」

「あんなに感激したことは初めてだった。だからきっと、私のピアノにも影響されて『ヨーロッパの音楽をやりましょう』なんてことになったんじゃないかしら」

フジコ・ヘミング 疎開先での「初恋」

そんなフジコさんの青春時代は、戦争の真っただ中にありました。

(フジコ・ヘミングさん)
「日本の兵隊がたくさん小学校に駐屯していた。その中の一人が私の初恋の人なんです。私よりずっと年上だったからもう亡くなったらしいですけど」

「一度だけ彼がしゃべった言葉は、『きょうはピアノを弾かないんですか』って。廊下でお会いした時に。私は一言もしゃべれなかった。それで終わっちゃったんです。終戦になって行ってしまったから」

戦後、不遇の時を過ごした先に

戦後。ヨーロッパで才能を認められたフジコさんですが、コンサートの直前に風邪をこじらせ聴力を失うという悲劇に見舞われ、長く不遇の時を過ごしました。その後、左耳の聴力が回復。

その波乱の人生を描いたドキュメンタリーが放送され、今では国内・海外の多くのファンがフジコさんのコンサートを心待ちにしています。

(観客)
「とても素晴らしい音色で、とても心に響いて。涙が、途中で聴いていてあふれてきて。感動しました」
「いままでの人生、いろんなことがおありだったですよね。そういう全てが演奏にのっているというか」

ウクライナ、そして国籍のあるスウェーデンへの思い

ウクライナでもたびたびコンサートを開いてきたフジコさん。フジコさんのファンの中には、いままさに戦火にさらされている人もいます。

そのフジコさん自身、スウェーデン国籍。スウェーデンもいまロシアの脅威に…。

(フジコ・ヘミングさん)
「私、ウクライナには毎年行って演奏していたんです。だからとっても考えられない。悲しくて」

「私はスウェーデン国籍です。スウェーデン人みたいに頑として中立であったほうがいいけど、でもそこへ爆弾か何か飛ばされたら、地球は吹っ飛んじゃうんじゃない?今に」

争いの絶えない世界に...“Schweigen ist Gold”

(小林章子記者)
「フジコさんは、戦争がなくなるためには、私たちがどういう心持でいたらいいと思われますか」

(フジコ・ヘミングさん)
「だから、人を怒らせるようなことは絶対に言わないことですよね。私は最近、絶対人を傷つけることは、どんな嫌な奴でも、黙って言わない」

「“Schweigen ist Gold”...同じなのよ。沈黙は金なりってドイツ語でもあるんですよ。本当にそうだわ」

取材で控室を訪ねたとき、フジコさんはにっこり笑って迎えてくれました。

「世界中に私を待ってくれている人がいる。だからコンサートを続けたい」と語っていたフジコさん。あの日聴いた「ラ・カンパネラ」はいまも心の中で響いています。世界中に素晴らしい音楽を届けてくれたフジコさんに、心よりご冥福をお祈りいたします。

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