問答無用の捏造事件
読売新聞大阪本社が4月6日夕刊に掲載した記事(「紅麹使用事業者 憤り」)に談話の捏造があったにもかかわらず、さらに社内検討を経ないまま「確認が不十分だった」と公表。捏造した社会部主任が諭旨退職したほか、関係した社員らが懲戒処分を受けるという出来事があった。
取材をしていない人間が別の記者の書いた記事を書き換える。デスクというポストがある新聞社では往々にしてこういうことはあると聞く。事実にないことを書いてしまう「捏造」は極端な事例だが、「角度をつける」「誇張する」「断言する」などの範囲まで広げれば、書き換えた経験のある記者、書き換えられた経験のある記者は少なくはないだろう。
今回の事例は問答無用の捏造記事で取材を受けた相手からの告発が契機となっているが、書いた記事、掲載された内容、動画等での発信が果たしてジャーナリズムに値するものかどうか、発信者は常に自問自答を繰り返さなければならない。
ビル・コバッチ、トム・ローゼンスティール著、澤康臣訳『ジャーナリストの条件――時代を超える10の原則』(新潮社)を読んでいると、その自問自答とはこれほどまでに深く、執拗なまでに繰り返されなければならないものなのかと驚くほどだ。
そして読売新聞は、処分で終わりにするのではなく、捏造記事が掲載されるに至った経緯、こうしたことが実際に起きてしまった背景、社内の内部統制の在り方にまで踏み込んで、実態を「透明化」する必要があるのではないかと感じざるを得ないのだ。
まさに「自問自答の書」
本書は「憂慮するジャーナリスト委員会の創設者・議長」であるコバッチと、「ジャーナリズムの真髄プロジェクトの創設者・理事」であるローゼンスティール(いずれも会の名称の迫力がすごい)がまとめ上げ、2001年の発刊以来、四度にわたって改訂を繰り返してきた、まさに「自問自答の書」と言える。アメリカでは実に20万部以上も売れ、25以上の言語に翻訳されてきたという。
ジャーナリズムとは何なのか。ジャーナリストとはどのようにあるべきか。この20年ですっかり人々に定着し、新聞やテレビ以上に人々が情報を得る手段となったウェブが、ジャーナリズムにどのような影響を及ぼしているのか。さらには、「一億総記者」とも言える「情報過多」な時代における、メディアの役割とは何なのか。徹底的に考え抜いた指針だ。
ジャーナリズムのあるべき姿として、日本では特に保守側から「客観報道」に徹せよと指摘されることが多い。もちろんこれは、リベラル寄りのメディアの報道姿勢を「客観的でない(リベラル側に偏っている、主観的すぎる)」と感じているからこその指摘だ。
しかし、「客観性とは何なのか」と言われると、途端にわからなくなる。「中立的であること」なのか。記者個人の判断基準や感情を一切排し、事実関係だけを羅列すれば客観性が保てるのか。最近話
題の「エモ記事不要論」もこの議論に関連するのか。
その「エモい記事」いりますか 苦悩する新聞への苦言と変化への提言:朝日新聞デジタル
本書では、『世論』で知られるウォルター・リップマンなどが展開してきた「客観性」の議論にまでさかのぼり、それをどう現場で実現すべきかを検討する。
最低限守るべき5つの方法
何が客観であり主観であるのかは、ともすれば哲学問答となり、「それぞれの中にある客観性を担保すればいい」とか「そもそも人間には主観しかなく、『客観』などない」といった話で終わってしまうため、本書では客観的方法によるジャーナリズムの「事実確認の規律」として以下の5つを提案している。
1 もともとなかったものは決して付け加えない。
2 読者・視聴者を決して欺かない。
3 自分の方法と動機をできるだけ透明に開示する。
4 自分自身の独自の取材に依拠する。
5 謙虚さを保つ。
これらは客観的方法であるという以前にジャーナリスト、あるいはすべての発信者が常に留意していてしかるべき事項のようにも見える。逆に言えば、この程度のことさえも守れないまま「ジャーナリスト」として発信を行っている人が多いことを示唆してもいるだろう。
本書は400ページ超のボリュームで、ジャーナリズムの何たるかを説く指南書であり、発信時に留意すべきルールブックであるとともに、情報の受け手である読者・視聴者にとっても重要な問題を投げかけている。
何度も繰り返し本書に立ち返って、民主主義を担保するジャーナリズムの在り方とは何かを自問自答する作業が、本書を読んだ後から始まるといってもいいだろう。
責任を負うのはジャーナリストだけではない
とはいえ、ここではコンパクトに本書のエッセンスを紹介したいので、ものすごいボリュームの本書の中からたった一つ、ジャーナリストが絶対に守らなければならない「鉄の掟」を挙げておこう。
ジャーナリズムの本質は、事実確認の規律にある。
まさに「この一文以外にはない」という、本質も本質だ。
当り前じゃないかと思うだろうが、それが当たり前ではなくなっているのが現在であり、過去もそうだったのである。
そして、事実が確認できないこと、わからないこと、知らないことは正直にそう述べるべきだとも説く。こうしたことができない「知ったかぶりジャーナリスト」も多いのではないか。
率直に言って、事実確認のプロセス以前に、一般人の情報収集・事実確認能力にも満たない自称・ジャーナリストが存在する。ネット時代はそれに更なる拍車をかけてもいる。専門的な前提知識がなくても検索すれば識別できるような真偽すらも確認できないまま、数千、数万の単位の読者・視聴者に「情報を売っている」ジャーナリストさえいる。
本書では「編集者」の役割も指摘されているが、ネットでの発信、特に動画には「動画を編集する」人はいても、内容に突っ込んだ編集作業に当たる立場の人間がいないケースも少なくない。
「複数の関係者が証言した」という一文に「複数とは何人ですか」「関係者とはどの範囲の人を指しますか」などと、突っ込みを入れるのが編集者の役割だと本書は説く。情報を届ける責任は、ジャーナリストだけでなく編集者にもあるのだ。
嘘情報で読者の認知がゆがむ
もちろん、事実確認を入念に行うジャーナリストであっても、時に間違えることはあるだろう。そこで本書も説く「透明性」が重要になるのだが、透明性を担保できないどころか、訂正も謝罪もしないまま、さらなる誤報やミスリードを重ねる向きも少なくない。
一億総発信者の時代とは、こういうものなのかと嘆息するほかないが、本書はこうした事態にも諦めることなく、ネット上の問題を引きながら「ジャーナリストかくあるべき」を提示していくのだ。
中立を装いながらも実際はプロパガンダでしかない報道を、どう考えるべきか。
取材対象から独立を保たなければならないジャーナリストは、自らの「党派性」とジャーナリズムの間でどう整合性をつけるべきなのか。
少なくとも立場との葛藤があってしかるべきではないのか。
「ジャーナリズムとは、ここまで徹底しなければならないのか」と考えさせられるその姿勢には、頭が下がるほかない。
冒頭で紹介した読売新聞の例は、社内の指摘で捏造を認めるに至ったからまだしも、こうした「組織の力」が働かなくなってきているのがネットの時代と言えるかもしれない。
代わりに読者・視聴者が個別に声をあげたり、プラットフォームを提供するIT企業に虚偽の情報や名誉棄損であることを「通報」する形で正していくしかない。
それまでの一方通行が主だったマスメディアとは違う、こうしたネットのありようは、黎明期には「集合知」のような形で評価されもした。
だが、日々新しい情報が怒涛の勢いで流れていく現在、すべての発信についての真偽を情報の受け手が判断し、間違いがあれば通報し正していくというのはほとんど不可能に近い。とんでもないデマ情報でもそのまま流れていき、信じ込んだ人たちの認知がゆがんでいくのだ。
その名を背負うのにふさわしいのは……
ジャーナリストには資格試験はない。新聞社やテレビ局なら入社試験はあるが、それは必ずしもジャーナリストとしての適性を判断しうるものではないし、個人で活動するジャーナリストは多くが自称である。
それはそれで構わないが、本書のような徹底的な自問自答、葛藤、ジャーナリズムの追及があってこそ、その肩書を背負うにふさわしいのではないか。
いや、そうした肩書を持たずとも、全世界に向けて情報で発信する以上は、本書の議論、せめて一端(「事実を確認せよ!」)だけでも噛みしめてから乗り出すべきだと考えさせられるのだ。