大沢樹生に訪れた人生の転機「ローラースケート、やってみない?」光GENJI加入の直前にかかってきた運命の電話

大沢樹生 撮影/佐賀章広

光GENJIのメンバーとして一世を風靡した大沢樹生さん。現在は俳優や歌手として活躍中だが、ここ数年、突如、東京・北区区長選に出馬するなど世間を賑わせた。出馬の真相や、その後に訪れた心身の変化、そして、55歳のいま、大沢さんが語るTHE CHANGEとは。【第3回/全5回】

取材部屋で、鏡に向き合い、静かに身だしなみを整える大沢樹生さん。円熟味の増した横顔はうっとりするほど美しく、思わずマネージャーさんに「ずっと美しいですね」と、大沢さんのじゃまにならないようにと声を殺して話しかけると、「ありがとうございます。私は彼が12歳のときから知っているんですよ。彼が事務所に入ったとき、私は事務所の社員だったんです」と、音量を抑えた声で教えてくれた。

ーーそんなに昔からのお付き合いなんですね!

「いまの会社を作るタイミングで、協力をあおいで、ずっと伴走してくれています」

ーーまぎれもない信頼できる仲間、ですね。芸能界、特に昭和のそこは“食うか、食われるか”なイメージがありますが、そんな中でも、信じる力に救われたことはありますか?

「パッと思い浮かんだのは、光GENJI結成の電話を信じたこと、ですね。僕はデビュー前で、“事務所を辞める”という電話をしたんです。そうしたらすぐに折り返しの電話がかかってきて、光GENJIの話をいただいて。じゃあ、これがラストチャンスだ、と思って話を受けて、いまがあります」

ーー事務所を辞めようと思っていたんですか。

「そうですね。1984年、13歳のときにロサンゼルス五輪の公式マスコットのアニメが作られて、その主題歌を歌った『イーグルス』というグループのメンバーでした。1、2年ほど活動して自然に解散して、その後、先輩のバックに戻されて、自分の中では“挫折”だと思ったんです。中途半端な状態がイヤで、17歳くらいのときに辞めてリセットしようと思い、自分の意思を伝えたんです」

当時、ジュニアとして活動していた大沢さん。バックダンサーのほかにドラマや映画出演もあったが、「単発、単発で、続かない。形にならない」ことで、手応えを感じられなかった。だが、転機は急に訪れたのだ。

「“辞める”という電話をしたすぐあとに、“ローラースケート、やってみない?”という電話をもらったんです」

打撲や捻挫は怪我のうちに入らなかった

ーー光GENJIといえば、トレードマークはローラースケートで、アクロバティックなワザを決めて歌い踊るグループでした。

「友達同士で遊びでやったことはあるけど、まさか生業にするとは思わないし、でもその一瞬でいろいろ考えて、”これがダメならきっぱり辞めよう”と思い、“はい! やります”と伝えました」

1987年に結成、チャゲ&飛鳥による楽曲『STAR LIGHT』でデビューする直前、全国でキャンペーンが組まれた。

「レコード会社は、“ファンが何万人と来るだろう”と見越してとてつもなく広い会場を用意してくれたんですけど、実際に来てくれたのは数百人。それで、"ああ、やっぱりダメじゃないか。ラストチャンスもダメだったか”という心境になったんです。でも、そのあとデビュー日に『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)に出たんですよね。その週末に大阪でのキャンペーンに行くと、何万人というファンの方が来てくれて。“すげえな、テレビの力!”と思ったことを覚えています」

それからは、お茶の間の想像をはるかに超えるほどの多忙を極めた。

「1日に何本も仕事をして、終わったら夜中から新曲の振り付けを練習したり、コンサートのリハーサルをやっていました。ほんとうに記憶がまったくないほど忙しかった」

ーーしかも振りは、ローラースケートが必須で。フィジカルも重要ですよね。

「そうですね、よくステージから落ちましたね。だから打撲や捻挫は怪我のうちに入らなかったです。骨折をしてもステージに立っていたメンバーもいましたから。代わりがいませんでしたからね」

令和の価値観になぞらえるととんでもなくブラックな環境だが、昭和の熱狂の渦にいた光GENJIは、誰ひとり異を唱えなかった。

「それが当たり前の時代……と言ったらそれまでですが、苦労だと思ってやっていなかったんだと思います。そういう経験があるからこそ、いまこの年になってもタフに動けるんだとも思います」

寝ずに熱中できたのは、「ステージに立つライブがいちばん楽しかったから」。数万人分の歓声は「うれしいし、気持ちがよかった」と率直に回顧する一方で、意外な光景もはっきり見えていた。

「やっぱり7人いれば、ファンの方もそれぞれ推しがいるじゃないですか。だから、推しじゃないメンバーが目の前に来ても、まったく見てもらえないこともあるんですよ、そういうのを目の当たりにするとさみしいですよね」

ーーステージから、そんなことがわかってしまうんですね。

「すべてのファンの方がそうではないですし、そういう方はなかなかいないからこそ、いるとつい目に入ってしまうんです。特に僕たちのステージの作りは、ファンの方々と近い距離まで行ける作りでしたからね」

田原俊彦、少年隊、SMAP、TOKIO……、礎を築いた先輩とエネルギーに溢れた後輩

エンターテイメントを凝縮したような光GENJIのステージは、当時のアイドル界で抜きん出ていたにちがいないが、大沢さんは礎を築いた先輩、そしてエネルギーに溢れた後輩を思い浮かべる。

「田原俊彦さんや少年隊のバックでステージの勉強をさせてもらいましたから、すごく感謝しています。特に少年隊は洗練されていました。後輩では、僕らのツアーにはSMAPとTOKIOがバックでついてくれていて、ちょうど僕らの最後のツアーのときに、TOKIOのお披露目があったんです。彼らとはよく食事をして、ほんとうにかわいい後輩です。SMAPについては、売れるまで時間がかかり、悔しい思いをしているんだろうな、とは思っていましたね」

近年は旧ジャニーズの問題で「お話しても、使えない部分があるかもしれない」と大沢さん自身も気を使うが、それでもやっぱり、重要な転機であった事実は揺るぎない。

「やっぱり自分を育ててくれた場所であり、そのときの感謝の思いは、いまの問題とはまた別物なんですよね。体力面でも、精神面でも、タフさを育ててくれたからこそ、現在進行系であるピンチや窮地を乗り越えるための、“諦めてたまるか”というマインドになれるんです」

大沢樹生(おおさわ・みきお)
1969年4月20日生まれ、東京都出身。1982年にジャニーズ事務所に所属すると、1987年に光GENJIのメンバーとしてレコードデビュー。1994年に光GENJIを脱退。俳優やミュージシャンとして活動。2006年に自身の会社を設立し、映画制作業にも乗り出す。2022年11月に東京・北区区長選挙への出馬を表明するも、翌4月5日に不出馬を表明した。

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