「人の背中を押す仕事も悪くない」パパイヤ鈴木が回り道で得た人生哲学

90年代後半、突如としておやじダンサーズを率いて表舞台に現れ、「歌って踊れるおじさん」として世を騒然とさせたパパイヤ鈴木。以来、本業の振付師としての活動を続けながら、自身もシンガー&ダンサーとしても活躍。さらには『元祖!でぶや』などバラエティ番組でも人気を博し、マルチタレントとして活動の幅は多岐にわたり、2023年6月に俳優で演出家の錦織一清と「Funky Diamond18(ワン・エイト)」のユニットを結成したことでも話題になった。

最初の夢は「西城秀樹のような歌手になること」だったという彼がなぜ、ダンサーを経て振付師になったのか。そして、30代になり一気に表舞台に躍り出た理由は? 回り道をする期間には土壇場があったが、パパイヤ鈴木ならでは人生哲学で乗り越えてきた。自分自身の表現にたどり着いた彼に、その半生を語ってもらった。

▲俺のクランチ 第50回-パパイヤ鈴木-

同級生はシブがき隊や少年隊など人気者が勢ぞろい

歌手の父と元ダンサーの母を持ち、芸能の道に進むことは「当たり前だと思っていた」というパパイヤ鈴木。そんな彼に衝撃を与えたのは、テレビで見た西城秀樹。そこから「歌手になりたい」という夢を持ち、人生を歩み始める。

「当時のテレビは今より特別でした。父も昔はTVCMに出ていて、それがうれしくてね。殺虫剤のCMでゴキブリの格好をしていたときは卒倒しそうになりましたけど(笑)。そんな父から中学生の頃に、“歌にはリズム感も必要だからダンスをやってこい”と習いに行かされたんです」

当時、周囲の男子中学生でダンスを習う人は皆無。最初は抵抗があったが、そこで出合ったソウルミュージックが彼の気持ちを動かす。

「アース・ウィンド&ファイアーの曲をそこで初めて聴いて、“カッコいい!”って。音楽ありきで通いだしたら、ダンスも楽しくなって。先生も教え方がうまくて、そこからは3年ほど毎週1回、必ず通ってました」

ダンサーとしてデビューしたのは、その師匠に付いていた16歳のとき。ダンスの仕事をしながら、定時制の明治大学付属中野高校に通学した。同級生には、シブがき隊や少年隊ら、そうそうたる顔ぶれが揃っていた。そんなクラスで、彼はどんな立ち位置だったのだろう。

「少年隊はデビュー前だったけど、シブがき隊は大スター。でも、本当に壁のない人たちばかりで、みんな仲良くしてました。僕は勉強せず、教室の後ろでごちゃごちゃ集まって、くだらない話をするメンバーの1人。勉強していたのは東山(紀之)と薬丸(裕英)くんくらい(笑)。そんななかでニシキ(錦織一清)だけは、僕といつもダンスの話をして当時から気が合ってました」

そんな高校時代、17歳の頃に「じつはレコードデビューしたんです」と打ち明ける。

「当時連載されていた槇村さとる先生の少女漫画『ダンシング・ゼネレーション』が、ミュージカル化されて出演したんです。舞台はヒットして槇村先生をはじめ、スタッフの方が大勢で見に来てくださって、キャーキャー言ってくれたりもして(笑)。その舞台の主題歌がシングルでリリースされることになり、グループの一員としてデビューしました。

でも、地方の営業で歌っても全然ウケなくて。一緒に出演したモノマネ芸人のほうは大ウケしているんですが……。挫折と感じるならそうなんでしょうけど、次こそはと思っていたし、グループでいろんなところへ行ってご飯食べたり、旅行のようで楽しい思い出になっています」

全てを自分でやらないと気が済まず睡眠不足に

17歳のデビューで出鼻をくじかれ、いきなり土壇場を経験することになるのだが、気持ちは前にしか向いていなかった。その後、開園したばかりの東京ディズニーランドでダンサーを務めることになる。

そこから2年、毎日踊る生活を送っていたが、ある日ふと「これでは西城秀樹になれない」と悟る。そこで20歳にして「歌手になる!」と改めて決意し、レコード会社のCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)と契約するも、そう簡単には歌手デビューの扉は開かなかったが、別の扉が開いた。

「当時の上司から“人の背中を押す仕事も悪くないよ”と言われたんです。“後輩にダンスを教えてみたらどうだ?”と頼まれ、次第に振り付けを任されるようになりました。最初は二足のわらじだったはずが、生徒が人前に出ることに充実感を感じるようになって。いつの間にか自分のことは二の次になりました」

「振付師が自分の仕事だ」という自覚は、実姉を社長にしてダンスイベントの会社を立ち上げたことで、より強固となったという。

「『セーラームーン』などのショーを予算から請け負い、着ぐるみや演者の手配、音響、照明まで全部仕切りました。当時は人に任せられなくて、全て自分でやらないと気がすまなくて、寝る時間がない。自分も着ぐるみに入って踊ったり、タキシード仮面役も何度かやりました(笑)。このころは睡眠時間を削って本当になんでもやって、とにかくがむしゃらに働きました」

松任谷由実との出会いによって“おやじダンサーズ”結成

振付師として、そしてダンスイベントのプロデューサーとして、がむしゃらに働く日々が約8年。いつしか子ども向けのショーは減り、仕事の主流はコンサートのダンサーのマネジメントになった。時間に余裕が生まれると「そういえば俺は歌いたかったんだ……」と思い出したと彼は話す。

ちょうどその頃、そんな彼の気持ちをさらに奮い立たせる人物との出会いがあった。それはユーミンこと松任谷由実と、その夫の音楽プロデューサー松任谷正隆だ。

「僕の会社に所属するダンサーが、松任谷さんの音楽学校で受付をしていて、ユーミンのバックダンサーに誘われて。それがご縁で、数年間ユーミンのステージの振り付けをしました。最初は1995年。そのときのステージのラスト曲が『春よ、来い』だったんですが、感動して大泣きしながらも“自分もあそこに立ちたかったんだよ!”って」

そこから松任谷夫妻を良き相談相手に、再び自身がステージに立つための行動に移る。そこで生まれたアイデアが、のちに大成功を収める“おやじダンサーズ”だった。

「ユーミンさんから“普通のダンスチームなんて面白くない”と言われて。それで“太っていたり、ハゲてたりする普通のおじさんたちがカッコよく踊るのはどう思います?”と聞いたら、“面白いじゃない!”って」

「踊れるおじさんを知らない?」と周囲に声をかけ、ようやくメンバーが揃ったところでプロモーションビデオを制作。広告代理店に売り込みをかけた。

「みんな面白がってはくれるけど“前例がないから……”と断られ続けました。そんななかで、サザンオールスターズのスタッフの方が、桑田佳祐さんに僕らのPVを見せてくだって。そしたら、桑田さんが“面白いね!”とアルバムのコマーシャルに使ってくれたんです」

そこからは、ひねりの効いたプロモーションが始まった。

「今は無き新宿コマ劇場の上階に、1000人くらい入る大箱のクラブがあって。そこで幕が開いたら僕らが15秒だけ踊って、お客さんが“なに!?”と思った途端に終わるというショーを夜な夜なやりました。それが口コミで広がってクラブが満杯になり、レコード会社の方も見に来てくれて、CDを出せることになったんです」

晴れてCDデビューした“パパイヤ鈴木とおやじダンサーズ”は、テレビで引っ張りだこの人気者に。しかし、当初はおやじダンサーズの「どこが面白いのかピンときていなかった」が、おやじダンサーズの成功は、振付師としての彼のクリエイティブにも変化をもたらしたという。

「最初は客観視できなくて、自分たちの面白さに気づくようになったのは、当時の音楽番組『THE夜もヒッパレ』に出演してからでした。

それまでは相手のニーズに合わせたおとなしい振り付けでしたが、おやじダンサーズで一度振り切ったら、自分のやりたいことができるようになって。クラシックのオーケストラの前で踊ったときは、“お尻締める!”みたいな振り付けをしたんです。本当にこの振付でいいですか!?って思いましたが、みんなノリノリで(笑)。ドイツの女性指揮者の方が指揮棒を振りながら爆笑してました」

その後、『元祖!でぶや』などバラエティー番組にも出演。マルチタレントとしても活躍の場を広げていく。多忙な日々にめげそうになることはないのだろうか?

「ほとんどありません。例えば、石塚(英彦)さんと一緒に半袖姿で雪山にシロップをかけて“かき氷だ!”なんてやった次の日がライブだったりとか、風邪ひいたらどうする……くらい。無理難題なスケジュールも平気で受けてました」

座右の銘は「人生プラスマイナスゼロ」

気持ちは前向きでもネックだったのは体の不調。意外にも「子どもの頃から体が弱かった」と語る。

「ダンスを始めたばかりの15歳の頃から足に血管腫という症状があって、血管がねじれて腫瘍みたいに膨れちゃうんです。手術で治すこともできるんですが、当時は手術を避けてテーピングでガチガチに巻いて踊ってました。結果的に自然治癒したんですが、それまで体を騙しながらなんとかやって。でも、ついに足首が剥離骨折したときはお手上げで、千葉の名医に手術していただきました。40代始めのときでした」

その頃、パパイヤはダイエット本『デブでした。』を刊行しているが、このダイエットも手術に備えてのものだったと告白する。当時の彼は多忙を極めていた時期。どうやって乗り越えたのか?

「当時、手術のことは誰にも言いませんでした。“健康のために痩せました”としか言ってなかったので。『元祖!でぶや』の相棒、石塚さんも手術のことは知らないんじゃないかな。

僕の座右の銘は『人生プラスマイナスゼロ』。うちの母がそういう考えの人で、大変なことのあとに必ず良いことがあると思っていて。だから、大変な局面でも良い面を探すのは慣れているんです。そして、真面目にやっていれば、誰かが必ず助けてくれますから」

昨年の夏からは、盟友・錦織一清とのダンス&ボーカルユニット「Funky Diamond 18」での活動もスタート。元気に歌とダンスを披露し、ますます精力的に活動中だ。

「ニシキとは、20年以上前に少年隊がやっていた番組で久々に再会して。その日の夜から飲み友達になりました(笑)。僕のダンスの師匠がニシキの師匠でもあって、10年くらい前から“2人で曲を出せば?”と勧められていたんです。ニシキとも“一緒にブルース・ブラザーズみたいなことやりたいね”と話していて。

少年隊はジャズダンスのイメージですけど、ニシキ自身はストリートダンスのオーソリティで、すごくうまいんです。僕は40年以上前から知っているから、それをファンの人に見てもらいたくて」

具体的になったのは2022年の2月。やると決めてからは早い展開で話が進み、昨夏にはミニアルバム『PRIMEMAX 』をリリースし、全国4都市でのツアーも開催した。

「とても楽しかったです……ニシキが(笑)。楽屋で“こんなに幸せなことはない”と言ってましたから。僕らの音楽の好みは正反対で、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』で言うと、ニシキは『More Than A Woman』みたいな洗練されたしっとりした曲が好きで、僕はテーマ曲の『Stayin' Alive』のほうが好み。でも、それでいいんです。だからこそアルバムもバリエーションに富んだ内容になったし。このユニットはまだまだ続けていきます」

(取材:本嶋 るりこ)


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