中森明菜の初代ディレクター島田雄三が語る “少女Bはいらない” 本格的ディーバに覚醒!  中森明菜が本格的ディーバへ覚醒した「飾りじゃないのよ涙は」

連載【ザ・プロデューサーズ】vol.4
島田雄三 / 中森明菜

中森明菜が本格的ディーバへ覚醒する軌跡

新しいスターが生まれる時、そのバックステージにはドラマがある。

これは、エンタメ界において、稀代の新人を数多く輩出した「黄金の6年間」(1978〜83年)を舞台裏から支えた、時代の証言者たちの物語である。そう、プロデューサーズ―― 彼らの軌跡を辿ることは、決して昔話ではない。今や音楽は “サブスク” なる新たなステージへと移行し、人々はあらゆる時代の音楽に等距離でアクセスできるようになった。温故知新―― この物語は、今を生きる音楽人たちにとって、時に未来への地図となる。

『プロデューサーズ』第4回は、80年代を代表するディーバ、中森明菜さんをプロデュースした、ワーナー・パイオニア(当時)の島田雄三さんの後編である。花の82年組で、しんがりのデビューゆえに巡り合えた来生えつこ・たかおさん提供の「スローモーション」のロングヒット。そして、自分のことが書かれてると思い込み、一時はレコーディングを拒んだセカンド・シングル「少女A」の大ヒット――気が付けば、同期のトップランナーに躍り出て、突如スポットライトを浴びた明菜さん。後編では、彼女が本格的ディーバへ覚醒する軌跡を辿る。

なお、本記事はSpotifyのポッドキャストで独占配信された「Re:mind 80’s - 黄金の6年間 1978-1983」を編集したものである(聞き手:太田秀樹、彩、さにー、かなえ氏 / 構成:指南役)

「少女A」が売れた要因とは?

――「少女A」の大ヒットで、島田さんと明菜さんの “冷戦状態” も雪解けに。

ある日、彼女の方から「島田さん…」って声をかけてくれて。あのクシャッとした笑顔で、可愛かったねぇ。

―― やはり、売れた要因は、明菜さんと「少女A」が重なる部分があったから?

その一面はあったと思います。もちろん “A” は明菜ではなく、普遍的な少女という意味合いの “A” ですが、女の子というのはただ可愛いだけじゃない。本音の部分では、一本筋の通った” 自分” というものもしっかり持っている。そういう少女の二面性みたいなものが、明菜というフィルターを通して聴き手にうまく伝わったんだと思います。

―― リアリティ。

それは、同期の他のアイドルの皆さんはやられていない路線だったので…。目立つかな? という戦略的な部分はありましたね。まぁ、僕なりの計算です。当時の明菜はまだ顔も声も幼くて、そんな彼女が「♪ワ・タ・シ 少女A〜」ってクールな目をして歌うワケですから、これは見てるほうはびっくりですよ。「このコ、どっちが本当なんだ」って。

―― そういえば、ジャケット写真もこちらをにらみつけるような…

あれは、デビュー前にファーストアルバムの『プロローグ〈序幕〉』の宣材用の撮影で、グアムに行った際に撮った1枚です。夕方、慣れない撮影を終え、疲れ切った彼女がプールサイドでふてくされているところを不意に写しました。

―― オフショット。

はい。じゃなきゃ、あんなものは撮れませんよ(笑)。狙って撮れる1枚じゃない。直後に「何撮ってるのよ」と怒られましたが…。そう言えば、あの日、こんなこともありました。撮影の途中、たまたま僕が中座している時に、些細なことで明菜とカメラマンの野村誠一さんが衝突しちゃって、戻ると撮影が中断してる。現場は険悪な雰囲気です。これはまずいと、咄嗟に「ごめんなさい!ちょっと時間をください」と、スタッフに頭を下げて休憩にしてもらって、明菜をクルマに乗せて現場から連れ出しました。こういう時はインターバルを置くことが大事なんです。

―― インターバル。

クールダウンの時間です。それで宿泊してるホテルに戻って、ロビーの横のテラスのソファに座らせて。そこは半屋外で、風も吹いて気持ちがいい。僕は彼女を咎めることも、衝突の原因を尋ねることもなく、ただ黙ってました。そうして2、30分ほど経ったころかな、彼女のほうから「ごめんね」と言ってきた。そこで僕は「明菜も大変だろうけど、野村さんもこの暑い中、いい写真を撮ろうと頑張ってる」と話したら、「そうだよね」と頷いた。そういう時に見せる顔は本当に素直で、やさしいコなんです。それで戻って、私からみんなに頭を下げたら、野村さんも「じゃあ、やりましょうか」と気持ちよく応じてくださって。

―― ナイスフォロー。

僕は、相手がデビュー前の新人アイドルで、こっちがディレクターだからって、上下関係で接しようとは思わなかった。1人の人格ある女性として、常にフィフティーフィフティーの関係を心掛けました。もちろん、こちらの意見を主張したい時は主張するけど、相手の意見にも耳を傾ける。いいところはとことん褒める。それは明菜のデビュー前も、天下の大スターになったあとも変わりません。一貫してフィフティーフィフティーです。

――素敵な関係です。

多分、僕と明菜のコミュニケーションがうまくいったのは、僕の中にそういう意識があって、明菜もある種のシンパシーを感じてくれたからだと思います。「アイドルだからこれはダメ、あれはダメ」なんて言っちゃうと、彼女の個性を潰してしまう。ある意味、研音とワーナーという弱小連合だから、明菜は上手くいった面もある。これが一流のところだったら、潰されますよ。だって最初から枠の中に収まってないんだから。規格外。考えてみてください。6人兄妹の5番目ですよ。これはお母さんから聞いた話ですが、ご飯食べるのも、自分で食べないとなくなっちゃうんです。そんな世界。

―― 自分を主張しないといけない世界。

だから、あるところまでは全部、本人のことを認めてあげるんです。僕は衣装だ、髪型だ、なんて細かいことは明菜に任せっきりでした。すると、彼女としても、最初から自分のことを認めてくれて、やりたいことを比較的自由にやれる環境だったので、ラクだった面はあると思います。

―― まず、本人のやり方を認める。

ただ、楽曲に関しては、僕に全面的に任せてもらうという、ある種の役割分担がありました。それを決定づけたのが「少女A」ですよ。あそこで、大喧嘩した後の大ブレイクだったから、いい意味で楽曲作りに関しては、「このおじさんに任せておけば、何とかしてくれるだろう」という、信頼関係みたいなものが生まれましたね。

本人の希望を叶えた「セカンド・ラブ」

―― 禍を転じて福と為す(笑)。その次が「セカンド・ラブ」です。これはどういう経緯で、また来生さんに?

実は社内では、次の曲も「少女A」の路線で行こうという声が多かったんです。同じツッパリ路線で人気を確立したほうがいいだろうと。でも僕は、明菜のイメージを固定化したくなかったし、それだと女の子の二面性というリアリティ路線からも外れてしまう。それに明菜自身、本音では「スローモーション」のようなピュアな曲を好んでいるのが分かっていたので…。できることなら、次は本人の希望を叶えて、懐柔したいという思いはありました。

―― ヒットした路線を踏襲しない。ある意味冒険です。

“少女B” は作りたくなかった。それで、再び来生さんの事務所を訪ねたんです。当時、たかおさんは「もうオファーはないと思ってた」とおっしゃってましたが、とんでもないと、こちらの意図を説明して。でも、相変わらずご多忙で、物理的に書く時間がないと…。で、こちらも前回(デビュー曲の依頼の時)と同様に、「いえ、書き下ろしじゃなくて、ストックされている曲でいいですから…」と、ひたすら頭を下げてお願いしたら、後日、2、3曲送られてきて。その中に「セカンド・ラブ」の原曲があったんです。

―― 確か、大橋純子さん用にストックされていた曲。

もう、今となっては有名な話ですが(笑)。この少し前に来生ご姉弟が提供された大橋さんの「シルエット・ロマンス」がロングヒットして、たかおさんはまた大橋さんサイドからオファーが来ると踏んで、次の曲を書かれていたらしいんです。ところが、オファーがなく、あんな名曲が埋もれていたんですね。

―― 運命の巡り合わせ。

まさに。それでタイトルを「セカンド・ラブ」にしたいと、姉のえつこさんに詞をオファーしたんです。これには2つの意味があって、1つは17歳の明菜のリアリティを表現したかった。17にもなった女の子が「初恋でルンルン」なんて嘘つけって(笑)。2度目の恋のほうがリアリティあるだろうと。2度目だからこそ、今度こそ掴みたいんです。もう1つは、当時、大半のお客さんは「少女A」がデビュー曲だと思っていたから、彼らに対して “セカンド” と付けることで、わかりやすく次のシングルだと思わせる狙いもありました。それをえつこさんに話したら、素晴らしい詞をつけてくださって。

明菜の歴代シングルのセールストップは「セカンド・ラブ」

―― 明菜さん御本人のリアクションは?

もう、大喜びでしたね。本人が好きなミディアムバラードだし、タイトルの意味を説明すると、「2度目の恋なんて、カッコいいね!」って。ただ、もともと大橋純子さんに渡すつもりで書かれた曲だったから、歌うのが難しい。完成度が高い楽曲だけに、本人のプレッシャーも相当なものでしたね。この曲なら、他の歌い手さんが歌っても大ヒットするだろうから、もし自分が歌って売れなかったら、この曲に申し訳ないと…。

―― 結果は、明菜さんにとって初のオリコン1位。

おかげさまで、たくさんの方々にご支持いただいて。オリコンは年をまたいで、計6週も1位を取らせていただきました。明菜の歴代シングルのセールスでも「セカンド・ラブ」はトップです。

―― 同曲で女性ファンが増えた印象もあります。

それまでは男性ファンが7、8割くらいだったのが、一気に男女比が半々になりましたね。ただ、意図して売り方を変えたワケじゃなく、明菜の場合、デビュー曲の「スローモーション」から、男性とか女性とか、あまりファンの性別を意識しないで作ってきたので、ようやく女の子たちにも届いたというのが正直な感想です。聖子さんもそうですが、女性アイドルがキャリアを積んでいく中で、どこかでギアを1つ上げるというか… 女性ファンを増やすというのが、その後のアーティストへの道にも繋がったと思います。

―― デビュー1年目にしてトップアイドルの1人に。

正直、想定外でした。デビュー前は、よくて1年目にホップ・ステップ・ジャンプと、緩やかに昇っていければいいかな、くらいの思いでした。下手すりゃ5作目くらいまでブレイクが来ないかも… という、ある種の長期的な戦略も見据えて。それが、あんなに早く「少女A」でドーンと行くなんて、想定外でしたね。

―― ホップから、いきなりジャンプ(笑)。

結果として、「スローモーション」「少女A」「セカンド・ラブ」の3作で、全てが決まったんです。あるところまでは少女の二面性… バラードとツッパリ路線を交互に出していこうとか、売れたお陰で作家へのオファーがやりやすくなって、その後の選択肢が増えたり…。ただ、いくら本人に才能があっても、それだけで売れる世界じゃありません。まず、世間に見つけてもらえない。当時のレコード会社というのは、5万から10万枚くらいのセールスまでは、何とか自分たちの力で売り切れるんですよ。でも、それ以上のブレイクとなると、我々の力じゃないんです。じゃあ、何の力か?――時代と神様の力なんですよ。

―― 時代と神様。

“人事を尽くして天命を待つ” じゃないけど、そういう何か大きな “啓示” … 見えない力が働かないと、ビッグアーティストって生まれないんです。明菜の場合、デビューの準備段階から出遅れたけど、おかげで来生えつこさんとたかおさんに出会えて、「スローモーション」という、後にロングヒットするデビュー曲をいただけたし、次の「少女A」では、ブレイク前の売野さんと芹澤さんの別々の詞と曲を組み合わせるという離れ業で、よもやの大ヒット。更に「セカンド・ラブ」は来生たかおさんが大橋純子さんのために書かれていた曲が、たまたまオファーがなくて埋もれていたという、これまた運命の巡り合わせ…。

―― 確かに、見えない力を感じます。

ただ、それを引き寄せたのは、やっぱり明菜なんです。持って生まれたスターの引力というか…。その意味では彼女は天性のアイドルであり、本物のアーティストです。

最初の2年は年間100曲前後をレコーディング

―― 2年目からはスケジュールも多忙になったでしょう。

状況が一変しましたね。当時は歌番組も多かったので、以前はなかなか呼ばれなかった番組からも次々にオファーが舞い込んできました。ランキング番組の『ザ・ベストテン』(TBS系)や『ザ・トップテン』(日本テレビ系)には毎週のように出演できたし、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)からは新曲を出す度に声をかけていただいて。テレビ以外にもラジオに雑誌取材に、新曲のプロモーションに… そうした中でレコーディングの締切は容赦なく迫って来る。デビューから2年目までの明菜プロジェクトは、3ヶ月ごとのシングルと4ヶ月ごとのスタジオアルバムを課していたので、年間100曲前後をレコーディングをしていたんですよ。

―― レコーディングは夜が多かったんですか。

大体、テレビの収録が終わった後なので、彼女がスタジオ入りするのは夜の9時か10時でしたね。ただ、翌日も朝から仕事が入っているので、深夜の1時か2時には送り出さないといけない。そうでなくても、もともと身体が強いほうではないので、無理はさせられません。録れて、一晩で1曲です。でも、だからと言って、僕は一切妥協しなかったし、明菜も嫌な顔を見せず、付いてきてくれました。もともと歌うのが好きなコなので、こちらの要求に対する飲み込みも早い。どんどん上手くなりましたね。だから、レコーディングであまり苦労した覚えはないんですよ。今振り返っても、楽しい思い出ばかりです。苦労したのは「少女A」くらい(笑)

―― あれだけ忙しかったのに、意外です。

ある日、予定していたレコーディングが早く終わって、時間が余った時なんて、スタッフ同士で歌合戦をやったこともありました。僕らが歌入れのブースに入って、明菜がディレクターチェアに座る。で、僕らが「♪ワ・タ・シ 少女A〜」と歌うと、明菜が「下手~!」とNG出したりして(笑)

―― 普通、深夜のレコーディングスタジオは殺伐としているのに(笑)

明菜も、ある時期まではずっと「お仕事の中で一番好きなのはレコーディング」と公言していたし、やっぱり歌を歌えること、歌える環境… それが本人にとって一番楽しかったんだと思います。そして何より、明菜が笑顔だと、僕らスタッフも笑顔になる。

参考にしたのはピンク・レディー

―― レコーディングはどういう段取りで?

まず “オケ録り” ですね。実はデビュー曲の「スローモーション」から、明菜はフルオーケストラだったんです。デビューで出遅れた分、どうしたら同期のコたちと戦えるかを考えたら… やはり楽曲だろうと。当時、リズムだけじゃなく、ストリングスにブラス、コーラスは男女編成と、同期であんな厚いオケで歌うアイドルはいなかった。あれだけオケが厚いと、普通は歌が負けちゃうんですよ。でも、明菜の声は負けない。どれだけオケを厚くしても前に出てくるんです。

―― オケに負けない。

参考にしたのは、ピンク・レディーさんです。彼女たちの楽曲を聴いてると、思いのほかオケが厚いんですね。あぁ、都倉俊一さんはオケで歌を煽ってるなぁって。煽って、煽って、誰が歌っても売れるくらいの盛大なオケを作ってる。これがピンク・レディーの成功の秘訣の1つだったと、ある時気が付いたんです。それで、明菜のオケを作る時に参考にしました。いえ、時代も離れてるし、オケの種類としては全然違いますよ。でも、エッセンスはそういうことです。オケで煽って煽って、それに負けないボーカルを引き出す。「少女A」なんて、萩田光雄さんのアレンジがハードなロックテイスト全開ですが、フルオーケストラ。イントロから矢島賢さんのギターソロが煽りに煽ってます。

―― あのギターは強烈でした。

それで、オケができたら、次はデモテープ用に仮歌を入れます。当時は “仮歌さん" がいなかったこともあり、ある時期までは僕が歌ってました。これでも昔、フォークデュオとしてデビューしたことがあったんです。早々に自分の才能に見切りをつけて、裏方に回りましたが…。

―― そんなことが。歌い手さんの気持ちに寄り添えるのは、そういうバックグラウンドも影響したんですね。

デモテープができたら、いよいよ明菜との打ち合わせです。テープを聴かせて、歌詞を見ながら最後のチェックをする。この時、僕は “レッスン" と称して、時間をかけて楽曲の世界観を丁寧に伝えたんです。「見てごらんよ、真っ青な海に誰もいないんだよ。夕方になってるんだよ。向こうからカッコいい男の子がシェパードを連れてくるんだよ。だから出会いはスローモーションなんだよ」とか、「何でセカンド・ラブなのか。17にもなった女の子が初恋でルンルンなんて、嘘つけって。嫌だよ俺は、そんな歌を作るのは。2回目の恋のほうがリアリティがあるだろう。だからセカンド・ラブなんだよ」とかね。

―― 気持ちから歌に入る。

そうなんです。そこまで伝えると、本人も歌の世界に入り込んで、そのヒロインになりきって歌える。ある種の憑依というか…。最初から、彼女にはディーバになれる資質が備わっていたと思います。

明菜から名前が挙がったのは林哲司

―― 明菜さんからこんな作家さんの曲を歌いたいとか、リクエストはあったんですか。

よく聞かれる話ですが… 少なくとも、僕が携わった4年間は、ほとんどなかったですね。先ほども話したように、当時はシングルもアルバムも含めて、年間100曲前後のレコーディングをしていたので、正直、次の作家をどうするかとか、明菜本人と話をする時間もほとんどなかった。それに「少女A」以来、楽曲に関しては僕に全面的に任せてもらうという、ある種の役割分担もあったので…。ただ、1度だけ、3年目を迎えるにあたって、それまでの少女の二面性路線から、そろそろ次の展開を考えないと… と模索していた時期に、ある日、明菜から杉山清貴&オメガトライブの曲が好きだという話を聞いて、林哲司さんの名前が挙がったことがありました。

―― 今や “シティポップ” の人。

ちょうど、林哲司さんが書かれた上田正樹さんの「悲しい色やね」もロングヒット中で、僕も「いい曲だなぁ」と、思っていたところでした。作詞はどちらも康珍化(かん ちんふぁ)さん。だったら… と、お2人に連絡を取りました。そして生まれたのが「北ウイング」です。

―― 中森明菜第2章。

ただ、林さんにオファーする際、「悲しい色やね」の話をすると、おそらくバラード曲になってしまう。僕は、それまでの少女の二面性の世界から変えたかったので、その時は「今回はバラードでもロックでもなく、その真ん中でお願いします」と話したのを覚えてます。曖昧な発注になってしまって、当初林さんは戸惑っていましたが(笑)

――ミドル・オブ・ザ・ロード、MOR。

そういうことです。幸い、林さんは上手にこちらの意図を汲んでくださって、ポップでスケール感のある曲を作ってくれました。アレンジも雄大で、まるで飛行機が離陸するような疾走感がある。その時、僕は “これは空港を舞台にした歌にした方がいい” と着想して、康珍化さんに連絡して、当初当てていた詞を「申し訳ないけど、飛行機をテーマにした詞に変えてほしい」と無理を言って、書き直してもらいました。そして上がってきた詞が実に素晴らしかった。

セルフプロデュースに目覚めるきっかけは「北ウイング」

―― タイトルの「北ウイング」は明菜さんのアイデアという話も。

当初、康さんが付けてきたタイトルは「夜間飛行(ミッドナイトフライト)」でしたね。ただ、先進的な曲と詞の割に、それだと少し古臭いイメージもある。多分、明菜の勘でしょうね。歌詞の中にある “北ウイング” がいいと提案してくれて。そういうことは初めてだったし、僕も、そっちのほうが新しいな… と思って。それで康さんに連絡したら、これまた快諾してくれて。思えば、あの時が、明菜が後年、“セルフプロデュース” に目覚めるキッカケになった気がします。

――リリースは、1984年の元旦。

文字通り、明菜の3年目のスタートにしたいという思いでした。それで、同曲にちなんで、明菜の新しいコンセプトを “世界に羽ばたく明菜” にしたんです。オリコンこそ、わらべの「もしも明日が…」に阻まれて2位に終わりましたが、年間ランキングでは堂々の9位。明菜の新しいスタンダードができて、彼女にとっても、僕にとっても忘れられないエポックメーキングな1曲になりました。そこから、次の「サザン・ウインド」が出てきたり、翌年、僕が最後に明菜を担当した「ミ・アモーレ」へと繋がっていくんです。

―― 85年のレコード大賞曲。

そう、「ミ・アモーレ」… 発売は85年の3月だったんですけど、制作している途中から、僕の中では “これは年末まで行くぞ” という予感はありましたね。詞・曲、そして明菜のパフォーマンスと、全てが完璧でした。そして予想通りに、大晦日のレコード大賞受賞。ただ、僕はもう明菜の担当を離れていたので、武道館には行かなかった。後輩に悪いから。そりゃ嬉しかったですよ、やったと思いました。本人も涙ボロボロで、お母さんも出て来られて。「やったな!おめでとう!」とその場で本人に声をかけたかった。でも、僕が出ていったら、担当している後輩が立場をなくすでしょう。だからテレビの前で静かに祝いました。

―― 送り出したという思い。

そうです。振り返ると、あの「北ウイング」から、僕が最後に担当した「ミ・アモーレ」までの明菜の3年目、4年目というのは、1年目、2年目にも増して、全てが大ヒットなんです。自分で言うのもなんだけど、ある種、神がかっているというか、何かが降りてきちゃったんですね。

―― 時代と神様。

そういうことです。結果的に “世界に羽ばたく明菜” というコンセプトが、僕が担当を離れた後も続いて、次々と素晴らしい名曲が生まれたことを思えば、やはり「北ウイング」が明菜の分岐点だった気がします。あそこでアレを歌わなければ、もしかしたら、その後の展開は違ったかもしれない。

「少女A」以来の鳥肌、「飾りじゃないのよ涙は」

――最後に、難しい質問ですが、島田さんにとっての明菜さんの想い出の1曲を選ぶとすれば?

…難しいですね(笑)

―― そこを敢えて。

… “飾り” 。「飾りじゃないのよ涙は」かな。僕はこの曲にすごく驚かされました。だって最初にテープをもらって一聴した時、悪いけど「シンガーソングライターの理屈っぽいところが出ちゃったな」って思ったんですから。井上陽水さん、大好きで尊敬できるアーティストだけど、シンガーソングライターって、どうしても曲が理屈っぽくなる。だから、当初はアルバムに入れる予定でした。それでオケ録りをしてたら、陽水さんが突然、スタジオに現れたんです。教えてもいないのに(笑)。そして「ちょっと仮歌のイメージが違うんで、僕に歌わせてくれませんか」と言うから、「そりゃいいですけど、キー違いますよ?」と返したら、「このくらい全然大丈夫」って。それでブースに入って歌ってもらったら、もうアレンジャーからスタジオミュージシャンまで、我々全員ひっくり返っちゃうくらい、その歌唱に圧倒されちゃって。ほんと、「少女A」以来の鳥肌ですよ。その瞬間、何が何でも、次のシングルはこの曲で行こうと決めました。

―― 聴いてるこちらも鳥肌が立つエピソードです。

「飾りじゃないのよ涙は」は、もう大スタンダード。おそらく僕がこの世からいなくなっても、5年経っても、10年経っても、20年経っても、 “飾り” は絶対残ってますよ。おそらく明菜も、そう感じてると思います。

かくして、80年代を代表するディーバ・中森明菜をデビューから4年間にわたり導いた、プロデューサー・島田雄三さんのインタビューは終わった。新しいスターが生まれる時、そのバックステージにはドラマがある。この “物語” から、あなたは何を読み解くだろうか。

1つだけ確かなことがある。エンタメにおける優れた作り手とは、「過去のヒット作品をどれだけ知っているか」と同義語である。

【ザ・プロデューサーズ】島田雄三 / 中森明菜 の前編はこちら!

参考図書 / 島田雄三・濱口英樹 著『オマージュ〈賛歌〉to 中森明菜』(シンコーミュージック・エンタテインメント)

カタリベ: 指南役

© Reminder LLC