『関心領域』思考欠如の恐ろしさ……。アウシュビッツ強制収容所の隣で暮らす家族【おとなの映画ガイド】

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カンヌ国際映画祭グランプリ受賞、今年の米アカデミー賞でも国際長編映画賞と音響賞に輝いた『関心領域』が5月24日(金) から全国公開される。「ぴあ」の水先案内人が選ぶ「5月公開のこれからみたい映画」ベストテンでも、1位になった作品だ。第二次世界大戦中のアウシュビッツ強制収容所を扱ったものなのだが、この切り口、この描き方は前代未聞。

『関心領域』

ポーランド南部のオシフィエンチムに作られたアウシュビッツ強制収容所を取り囲む40平方キロメートルの地域は、ナチス親衛隊(SS)に「関心領域」と呼ばれていたそうだ。婉曲的な表現だが、つまり、ユダヤ人の殺戮が繰り返し行われていた収容所の存在する場所を指している。収容されたユダヤ人のほとんどはガス室で殺され、焼却された。被害者数は100万人以上という。

この映画には収容所内部の様子はでてこない。ユダヤ人も登場しない。では、何が描かれているのかというと、収容所のお隣に住む、所長一家の日常。その暮らしぶりなのである。美しい庭を囲む壁のすぐ向こうに、アウシュビッツが大きな山のようにそびえ立っている。

映画の原作は、マーティン・エイミスが書いた小説。それを、イギリスの鬼才、ジョナサン・グレイザー監督が大胆にアレンジし、映画化した。グレイザー監督といえば、スカーレット・ヨハンソンが地球外生命体に扮したSFスリラー『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2014) で映画ファンをあっと言わせたが、あれから10年。満を持しての長編監督作だ。

インタビューで語った監督の映画説明が、なんとも皮肉がこもっていて興味深いので、ちょっと長いが引用すると──。

「映画は、男とその妻を描いたファミリードラマです。ふたりは幸せに満ちている。美しい家に5人の子供と住んでおり、妻は庭いじりに精を出し、自然に囲まれた暮らしを満喫している。夫は重要な仕事を任されており、それをそつなくこなしている。ふたりは申し分のないパートナー同士ですが、会社が自分を別の都市へ異動させたいと考えているという知らせを夫は受け妻はショックを受ける。一緒に行きたくないと。ふたりの結婚生活には亀裂が生じるが、彼は行ってしまう。夫婦はできる限りのことをして、すべてを投げ出すことはない。そしてハッピーエンドを迎える……ひとつ言い忘れていたのは、彼はナチスのアウシュビッツ強制収容所の所長だということ」。 比喩的に「会社」といっているが、彼の雇い主は国家であり、彼の仕事は、収容されたユダヤ人を効率よく虐殺すること、なのだ。

映画では、淡々と、まさに淡々と収容所所長ルドルフ・ヘスの家族の日常が展開される。妻が、大量に届けられるユダヤ人の衣服や装飾品からお気に入りの品を引き抜くことも、ごく当たり前の楽しい日常だ。「このダイヤモンドはどこにあったとお思いになる? 歯磨きのチューブの中よ。ユダヤ人って頭いいわね」といった会話もフツーに交わされる。妻の最大の関心事は丹精こめて育てているお花がいっぱいのガーデン。夫の関心事は軍における出世、そして自分の家族を守ること、である。

ナチス・ドイツというと、あの、片腕をふりあげ、ファナティックに叫びながら演説するヒトラーの姿と、右手をあげてそれに「ハイル・ヒトラー」と答える狂信的なユニフォーム集団を思い浮かべてしまうが、彼らは常にそんな風に熱く興奮しているわけではない。

ユダヤ人大虐殺、いわゆるホロコーストに関与し、移送の指揮的役割を担ったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレントは、「アイヒマンは怪物的な悪の権化ではなく、思考の欠如した凡庸な男」と評したが、この映画の主人公ヘスもまた、命じられたことを組織の歯車として、整然と、きまじめに任務を遂行する、どこにでもいそうな保守的なふつうの男である。

へスを演じたのは『ヒトラー暗殺、13分の誤算』にも主演したクリスティアン・フリーデル。妻のヘートヴィヒ役は、2月に日本で公開された『落下の解剖学』で米アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたザンドラ・ヒュラー。

映画は独特の方法で撮影されている。最大10台の固定カメラをヘス邸のあちこちに置き、撮影チームは別室からカメラを遠隔操作する。撮影用の照明も使わず、自然光と電球の灯りだけで撮影。役者は、セットのなかを、演技というよりは、まるで生活しているように動き、話す。それは、現代のリアリティドラマのようでもあり、隠し撮りのドキュメンタリーのようでもある。

その映像のバックにきこえてくるのは、収容所内のかけ声や銃声、断末魔の叫び声、ノイズィな物音。そして、不協和音のような音楽。

幸せな生活。そのすぐ隣で世界史上例を見ないおぞましいできごとが進行していた……、こんな「ホラー」があるだろうか。

文=坂口英明(ぴあ編集部)

【ぴあ水先案内から】

佐々木俊尚さん(フリージャーナリスト、作家)
「……映像ではない要素で、これほどまでにホロコーストの恐ろしさをリアルに伝える映画は過去に例を見ない……」

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樋口尚文さん(映画評論家、映画監督)
「……すべての人間のネジがはずれている。なぜ人は何食わぬ顔でここまでたどりつけてしまうのか、そのことへのおぞましさ、気色悪さが最大限に膨張する……」

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植草信和さん(フリー編集者、元キネマ旬報編集長)
「……我々の“関心領域”は何キロメールなのか、と考えざるを得ない現代への警鐘の映画でもある……」

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