“映画とアニメの境界”をアカデミー賞などから考える 2024年春のアニメ評論家座談会

映画とアニメーションの垣根が曖昧になりつつある昨今、その変化の最前線を映し出したのが2024年の数々の映画賞だった。

日本が誇るアニメーション界の巨匠、宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』が第96回アカデミー賞長編アニメーション賞を受賞。同賞の日本からの受賞は、同じく宮﨑が監督を務めた『千と千尋の神隠し』以来、21年ぶりとなった。本作が世界最高峰の映画祭で評価されたことは、アニメーションの新たな地平を切り開く出来事と言えるだろう。一方、インターネットを中心に社会現象にまで発展した『すずめの戸締まり』が同部門にノミネートされるなど、大衆性とアーティスティックな表現が交錯する現在のアニメーション事情を象徴する出来事も相次いだ。

こうした状況を受け、本座談会では映画ライターの杉本穂高氏、アニメ評論家の藤津亮太氏、そして批評家兼跡見学園女子大学文学部准教授の渡邉大輔氏を迎え、映画とアニメの「いま」を読み解いていく。

2024年の映画・アニメーション業界はどこへ向かうのか。杉本氏の著書『映像表現革命時代の映画論』(星海社新書)で提起された、メディアの垣根を超えた分析視座を起点に、各賞レースを振り返りつつ、変革の時代を迎えた映像表現の未来図を探る。

■宮﨑駿『君たちはどう生きるか』アカデミー賞長編アニメーション賞受賞の意味

杉本穂高(以下、杉本):今年のアカデミー賞に関して、まあ、いつものことではあるんですけど、作品賞候補は全て実写作品だったのが残念です。宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』が長編アニメーション賞を受賞したことは嬉しいですが、いっそのこと作品賞にノミネートしてほしかった。僕の本でもこのアカデミー賞を少し取り上げて言及しましたが、アカデミー賞作品賞の最高賞はベストピクチャーと言うのですが、ピクチャーというのは写真と絵と両方の意味を含んでいる単語なんですよ。だから、実写だけではなくて、アニメーションにももっと門戸を開いてほしいなという思いがあります。この分厚い壁を破れるのは、今のところ、何を置いても宮﨑駿監督しかいないだろうと思うので。ただ、ノミネート作品を見ると、『哀れなるものたち』や『バービー』など、実写なんだけどアニメーションに親和性が高い人工性の強い感性の作品が有力候補としてノミネートされていて、アメリカの映像業界にもある種かなり変化が訪れているのかなという気はしました。2023年の作品賞は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』でしたしね。そういう作品が選ばれてきていることに時代の変化を感じてはいます。

渡邉大輔(以下、渡邉):ちなみに、これまでのアカデミー賞の歴史の中で、アニメーション作品が作品賞にノミネートされたのは、『美女と野獣』『カールじいさんの空飛ぶ家』『トイ・ストーリー3』の3本だけですね。受賞はまだありません。

藤津亮太(以下、藤津):まだ難しいというか、越境できるのはピクサーとディズニーだけだったという話ですね。アメリカ国内の賞ですし、ある意味わかりやすい感じがします。僕自身は、アニメーションの賞はちゃんと独立してもらった方がいいんじゃないかと思っています。実写とアニメを全部混ぜて勝負するとなると、実写の方が数が圧倒的に多くて、その分尖った作品も多いんですよ。世界的に見ても、主題が尖っていて芸術性が高い長編のアニメ作品は、実写よりは数が少ないと思うんですよね。そもそも制作されている数が違うから。だから混ぜると数の影響でアニメが不利になって、総体として受賞しにくくなるのでないか、という気持ちがあって。理屈としては同じフィールドで競うのが正当とは思うんですけど、アニメという表現手段が「ここに確固としてあるんだよ」と世界にアピールするためには、アニメ独立の部門があってもいいのかなと思います。

杉本:部門自体は設けていいとは思うんですけど、やっぱりその部門があることで、“こっちで我慢してね”感が出ちゃう、ということはありますよね。

藤津:それはわかります。「同じ映画ではない」から別にカテゴライズしているように見えてしまう。

杉本:結局一番注目されるのは作品賞なので、そこをどう考えたらいいのか。ただ、長編アニメ部門ができたのは2001年からですが、それ以前は『美女と野獣』の1本しかノミネートできなかったことを考えると、部門を独立して設けて評価することで、ある種の発展を促したことはあるんだろうとは思います。

渡邉:一方で、今回のアカデミー賞は日本勢の大きな話題があったこともあり、日本映画とアカデミー賞の関わりという点から、『君たちはどう生きるか』の受賞について考えてみると、今回の新作は82歳になる宮﨑監督が手掛けたわけですが、やはりかつての黒澤明監督とのアナロジーや類似性を感じずにはいられないんですね。世代はかなり前後するとはいえ、ここ30年ほど、日本を代表する世界的な映画監督といえば、黒澤明、宮﨑駿、北野武の3人が挙げられると思います。昔、この3人をまとめたインタビュー集(『黒澤明、宮﨑駿、北野武:日本の三人の演出家』ロッキング・オン)が出たこともありますし。黒澤監督が最後の作品となる『まあだだよ』を発表したのも83歳の時でしたし、北野監督も2023年に公開した最新作『首』では、合戦シーンなどで『影武者』や『乱』などの黒澤作品を明らかに参照していたりなど、どちらの新作も黒澤監督を想起させる要素がありました。しかも、宮﨑監督は今回、アカデミー賞で2度目の長編アニメーション映画賞を受賞し、『千と千尋の神隠し』での同賞受賞と2014年の名誉賞を合わせると、黒澤監督と並ぶ日本人の個人での最多アカデミー賞受賞記録となりました。『まあだだよ』が公開された1993年、おそらく宣伝のためでしょうが、当時黒澤監督は、北野監督、宮﨑監督それぞれと対談しているんですね。ただ、その様子を見ていると、黒澤監督が目にかけていて明らかに盛り上がっているのは北野監督の方で、宮﨑監督とはちょっとギクシャクした様子が伺える。ですが、例えばアカデミー賞の受賞歴を見ても、結果的に、世界的にも黒澤監督の後継者的存在として認知されているのは、宮﨑監督になったと言えるのではないかと思いました。というのは、ここにも「実写からアニメへ」というような変化が表れていると思うからです。ところで、NHKの『プロフェッショナル仕事の流儀』での制作風景を見ると、作画監督の本田雄さんなどの若手スタッフの仕事に対して、宮﨑監督が納得していないようなシーンもありましたよね。その辺りの宮﨑監督の意図と、完成した作品、そしてアワードでの評価の関係性についてはどのようにお考えでしょうか?

藤津:僕はNHKの『プロフェッショナル』については、作品の細部から、本人のライフストーリーに遡りすぎるのはよろしくないと思っています。その部分を除いても、取材できた材料でまとめる時に意図的に高畑監督との関係性がピックアップされた、という感じは拭えないかなと思っています。本田さんについては、宮﨑監督は基本的に、誰であっても満足はしないタイプだと思います。それは強欲なクリエイターが持つマインドで、そこを作品の評価と直接結びつけるとかえってややこしくなるかなという感触はありますね。

杉本:先ほど、作品賞にもノミネートしてほしかったと言っておいて矛盾するようですが、正直、ここまで多くの賞を獲るとは思っていませんでした。アニー賞では『スパイダーマン:スパイダーバース』に敗れましたが、ゴールデングローブ賞では受賞しています。『千と千尋の神隠し』以降、宮﨑作品への認知度が上がり、アカデミー会員の間でも“宮﨑リテラシー”が高まっていたことが大きいのかもしれませんね。

藤津:『千と千尋の神隠し』の時もラッキーな面があって、そのほかの対抗馬が弱い年だったんです。今回も、コロナ禍で配信サービスが伸長する中、2020年から北米でジブリ作品の配信が始まっているという大きな変化があり、さらに決定打に欠ける作品が続く中での出来事だったと言えます。ビジネス環境の変化と運の要素も大きかったのかもしれません。

杉本:そうですね。ただ、この1、2年でギレルモ・デル・トロの『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』や今回の『君たちはどう生きるか』と、非3DCGアニメーションが連続受賞しているのを見ると、傾向が変わってきたのかなとも感じます。『スパイダーマン:スパイダーバース』の受賞で、アカデミー会員がアニメーションの多様性に気づいたのかもしれません。これからは、より幅広いタイプのアニメーション作品にチャンスが巡ってくるのではないでしょうか。

渡邉:2014年に宮﨑駿監督がアカデミー賞名誉賞を受賞した際のスピーチの冒頭で、「私の家内が、「お前は幸運な男だ」とよく言います」と語り出しましたが、僕もまさにその通りだと思います。だって、その名誉賞にしても、前年に長編監督からの引退を大々的に宣言して、もう新作が作られることはないと誰もが思ったからこその名誉賞授与だったはずなので。そして今回も、あまり強力な対抗馬がいない中での2度目のアカデミー賞受賞を果たしました。もちろん、作品のクオリティの高さや業績の素晴らしさは前提の上ですが、本当に偶然と運が重なったという感じがしますね。

藤津:賞というのは、そういう風向きの影響を受けやすい面がありますからね。優れているというだけなら、いろいろな作品が対象になりうるのだけれど、そこに「今贈賞すべき要素」が加わると、賞レースでは強くなる。アカデミー賞は投票式なので、その傾向は顕著かもしれません。

杉本:そういう意味では、日本アニメ全体の知名度上昇の恩恵を、宮﨑監督も確実に受けたのだろうと思います。『風立ちぬ』の頃と比べても、公開規模が明らかに変わりましたからね。

藤津:配給のGKIDSの努力も大きいでしょう。『未来のミライ』のノミネートを経て、日本で強い作品を北米でも戦わせようとする姿勢が感じられます。

■制作方法を知らなければ批評はできない アニメーション表現のいま

杉本:本当に今、長編アニメーションはさまざまなタイプの作品が出てきていて、非常に刺激的な分野になってきていると感じます。アカデミー賞もそうした傾向をちゃんと反映していますし、新潟国際アニメーション映画祭もそれを率先して、日本でそうした多様性を広げようとしている印象を受けました。アニメーションという言葉で一括りにするのが難しいほど、表現の幅が広がっているんですよね。私が本を書いたのも、実写とアニメーションという二分法では捉えきれない状況にあるのではないかと考えたからなんです。

藤津:新潟で上映された『ニッツ・アイランド』という作品は、その意味で問題提起になっていましたね。オンラインゲームを楽しむ人々を、取材クルーがそのゲームの中で取材した作品です。インタビューを行っているゲーム中の動画を繋ぎ合わせたドキュメンタリーなんですが、これをアニメーションと呼べるのかどうか。

杉本:コマ撮りしていないからアニメーションかどうか微妙、けれど実写映像とも呼べないわけですね。映像のテクスチャーとしては、ゲームCGの映像で実景も生身の人間も写されてないけど、従来のアニメーションのように作られてるわけでもない。今後AIの発達で実写映像のテクスチャーをアニメ風にしたり、あるいはアニメから写実風の映像に変換という技法は増えるでしょうから、テクスチャーの問題について考えざるを得なくなります。でも、そのテクスチャー変換によって何か新しい味わいが生まれたりするのでしょうか。

藤津:『ニッツ・アイランド』の場合は、見ているうちに観客のリアリティの感覚が次第に混乱してくるというところに表現のおもしろさがありました。ゲームとしてはリアルだけれど、現実よりは明らかに情報量の少ないゲーム画面が、次第に現実のように感じられるようになるという、奇妙な転倒が起きます。。また、新潟で上映された『オン・ザ・ブリッジ』も特殊な作品でした。ホスピスの人々へのインタビューを素材として使いつつ、状況設定を全て列車内の光景に置き換え、別人がインタビューの言葉に従って演技を行い、それをロトスコープでアニメ化したものです。音声はドキュメンタリー性が高いのですが、アニメーションのテクスチャ-を与えることで、音声が直接的に示しているものとは別の象徴性を提示するという手法が興味深かったです。

杉本:なるほど。やはりテクスチャーの問題は、今後のアニメーション表現を考える上で避けて通れないテーマになりそうですね。『ニッツ・アイランド』や『オン・ザ・ブリッジ』のような作品の登場は、そうした問題意識を喚起する上でも重要な意味を持つのかもしれません。

渡邉:テクスチャー処置や実写のようなインデックス性と記号性との関係性の問題は、近年脚光を浴びている「アニメーション・ドキュメンタリー」にも通じる面がありますね。賞や選考の話で言うと、お話を伺っていて、今、アニメーションの評価や選考を行う上で、従来の枠組みにとらわれない柔軟な視点がますます求められていると感じています。自分の本でも、これまで現代における、いわば映画的想像力やアニメーション的想像力の「全体性」について考えようとしてきました。ただ、「全体性」を捉えようと志向しても、それは原理的に絶対に全体を捉えられない。だからこそ、絶えず「これはアニメなのか?」「これは映画なのか?」という臨界点を考えながら、自明のものだと考える「アニメ」や「映画」の輪郭を問い続ける作業が必要だし、そういう視点で個々の作品の評価や選考を行わざるを得なくなっているのだと思います。その際に重要なのが、メディア考古学的な視点ではないでしょうか。私たちが当然だと思っている現在の映画やアニメのイメージも、歴史を遡れば、決してそうではなかった過去の遺物の多様性が見えてくる。だからこそ、今日のポストメディウム的な状況の中で、歴史を振り返りながら従来の概念を問い直すことが必要だと考えています。またもう一つ、今の状況ではジャンルを越境した知識も求められるでしょう。アニメを評価するためには、ゲームや漫画についても知っておく必要がある。そうした領域横断的な視点が、ジャンルの変容期には不可欠だと思うのです。多くの選考に関わっていらっしゃる藤津さんは、そうした視点をお持ちだと思います。固定観念にとらわれず、新しい可能性を積極的に取り入れていくことが大切ですからね。

藤津:そうですね。杉本さんの本を読んで、アカデミー賞の長編アニメーションに関しては、公式ルールがあることを知りました。特に、実写と見間違うようなスタイルの場合は、アニメであることの根拠となる情報を提出すること、というルールはインパクトがあります。確かに、映像だけ見ても、AIを使ったのかアナログで作ったのかはわからない。最近はストップモーション風の3DCGアニメもあるので、ルックだけでは判断できません。やはり制作スタイルを明示することが必須だと思いますね。

杉本:ただ、そうなると映像を評価するとは一体何なのかという疑問も生じます。制作方法を知らなければ、もはや批評はできないのでしょうか。完成作品の画面を純粋に見つめる表層的な批評は技術的に成立しなくなるのでしょうか。

藤津:ある映画賞のアニメーション部門の一次選考に携わっている身からすると、現場の実務的にはとても分かる話です。実際、近年そういう判定が難しい作品がちょくちょく登場しています。ただそれはアニメーションという括弧がついているからこその問題ですよね。映画という大きなくくりで捉えれば、あまり気にする必要はないのかもしれません。

渡邉:おおかたの映画批評というのは、スクリーンに映し出された映像だけを見て、良し悪しを評価したり論じたりします。とはいえ、例えば使用しているレンズの種類一つとっても表現は大きく変わるわけで、そうした裏側の技術的なこともわかっていない映画批評はダメだという意見もあり、それはそれでわかる。だからといって、制作や文脈の全てを知らなければダメだというのも極端な話で、結局は批評には複数の評価軸があっていいと思います。杉本さんの本でも、演技論について触れられていましたが、例えば劇中の一人のキャラクターの演技でも、シーンによって俳優以外の、スタントが関わっていたりする。つまり、映画やアニメーションは集団制作の産物なわけで、そこをどう評価するかは難しい問題ですよね。従来の映画批評は、「監督」=「作家」というフィクションを仮定し、文芸批評のような作家主義で論じるアプローチが主流でしたが、確かにそれだけでは立ち行かなくなっているのかもしれません。

藤津:YouTubeでメイキング映像が見られるようになって、意外と役者がちゃんと演技しているのがわかったりしますからね。「全部CGでしょ」みたいな侮りもダメなんですよね。かといって作り方がわからなければダメかというと、そういうわけでもない。難しいバランスだと思います。

杉本:僕の本でも『るろうに剣心』を題材に、実写らしさについて書いたことがありますが、やはり本物の肉体を記録することの強さは残っていると思うんです。役者の肉体をCGに置き換えないのは、そこに実写でしか表現できない何かがあるからでしょう。それは従来の映画批評で言われてきた「映画らしさ」とは少し異なる概念なのかもしれません。

渡邉:その「実写」という言葉の問題は、この座談会でも前に話したかもしれませんが、ここ5、6年ほど、僕の大学の授業などで実写とアニメーションの話をすると、今の20歳前後の学生の間では、「実写」の意味合いが変わってきているんです。彼らにとって「実写」というと、『ゴジラ』や『七人の侍』のような「実写映画(映像)」ではなく、「漫画の実写化作品」を指しているんですよね。『ジョジョの奇妙な冒険』や『刀剣乱舞』など、特定のジャンルの実写化を思い浮かべていて、通常の用例とはかなり認識がずれていると思わされる局面にしばしば出会います。つまり、若い世代では実写の捉え方自体が変わりつつあるんです。

杉本:それは僕の本のテーマとも重なっていて、実写という言葉の意味の変遷についても触れたんです。そもそも大正時代は、役者が演技しているものは実写とは呼ばず、自然物を記録したドキュメンタリー的なものだけを実写と言っていた。だんだんと言葉の意味は変わってきているんですよね。実写という言葉自体、誰も明確に定義してこなかったからこそ、こうした変化が起きているのかもしれません。

渡邉:だから授業では、実写とは文字通り「実物を写した」映像のことだと説明するんですが、一部の学生は、「アニメ」というと「テレビアニメ」のことを指し、劇場アニメは「映画」と呼んだりもしている。「アニメは見ないけど、映画は見ます。『君の名は。』とか」と言われて、「それはアニメじゃないの?」って(笑)。その区別もあいまいになっているんです。

藤津:今の若者はアニメをテレビで観ることが少なくなり、配信で視聴することが多いから、「テレビ」アニメという感覚が薄れているのかもしれませんね。テレビアニメをアニメと呼ぶのは、テレビ番組としての認識が薄いことも影響しているのでは、という説もあります。ちなみに先日、大学の授業で「CMがあるからテレビは無料で見られる」という話をしたら、2人ほどから「初めて知りました」という反応がありました。それぐらい生活の中でテレビが縁遠いものになっているのかなと。

渡邉:ただ実写映画とアニメーション映画の区別がつかないわけではなく、実写というとまず漫画原作の実写化作品を思い浮かべるようです。だから説明が難しくなるんですよね。彼らは、いわゆる僕らが言う普通の実写映画をどう呼んでいるのか、そのあたりの認識のズレは気になるところです。

杉本:そこは僕も聞いてみたいですね。マンガやアニメの実写化作品だけを実写と呼ぶ学生が既にいるわけですから。専門的に原稿を書く側が気をつけて使っていても、一般的な使われ方がずれていくと、こちらが歩み寄らざるを得なくなる。難しい問題ですよね。

渡邉:杉本さんの本は、そういった切り口がたくさんあって、若い人にこそ読んでほしいと思います。教科書的というか、現在の映画とアニメが置かれている現状について、読みやすくて見通しが良くなる内容だと感じました。ところで、業界でも話題になった『ゴジラ-1.0』については、みなさんどう思われますか?

杉本:僕は面白かったですよ。ゴジラの描写に関して言えば、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』とはアプローチが違っていましたね。庵野さんはCGとモーションキャプチャーを使いつつ、着ぐるみの魅力を再現するような方法を取っていた。それに対して『ゴジラ-1.0』は、よりリアルに寄せたCGを用いている。特撮的な魅力はそれ自体に独特の素晴らしさがあるけど、いかんせんハイコンテクストなので、国際的には現実に近づけた方が高く評価されやすいので、そのあたりが視覚効果賞受賞に繋がったのかもしれません。

藤津:予算のメリハリという点でも、『シン・ゴジラ』と比べても『ゴジラ-1.0』はどこを見せ場にするのかをきっちり絞り込んでいましたよね。特に銀座のシーンは一番の盛り上がりどころで、そこに力を入れていた印象です。

杉本:物語を盛り上げるためにVFXが効果的に使われていたからこそ、受賞に至ったんでしょう。単に出来が良かったというだけでなく、演出面でも視覚効果が巧みに活用されていたと。

渡邉:山崎貴監督って、これまでどちらかというとドメスティックな題材を扱うイメージがあったので、今回の評価は驚きましたが、米林宏昌監督に近いところがあるのかなとも感じました。強いイデオロギーやメッセージを押し出すというより、自分に馴染みのある題材を、卓越した技術力でニュートラルにまとめ上げるタイプの作家だと。そうした手腕が、今回も存分に発揮された結果なのかもしれません。固有のメッセージというより、世界中の人が共感できるエンターテインメントに仕上げる力が際立っていましたよね。

■Z世代と新潟国際アニメーション映画祭で考えるアニメ業界の未来

杉本:Z世代は世界的にアニメを普通に観ていると色々な統計で言われてるのですが、10年後、20年後には、アニメのリテラシーは今とは比べものにならないほど普及していると思います。そうなれば、ジブリ的なアニメと深夜アニメ的なアニメの垣根を意識する人はほとんどいなくなるでしょう。だから、『鬼滅の刃』のような作品がアカデミー賞に食い込んでくる可能性だって十分にあると思います。

渡邉:実際、今年のアカデミー賞でも『すずめの戸締まり』が候補になっていましたからね。日本のアニメ2作品が入るのはまだ早いと判断されたのかもしれませんが、そのうちそういう時代が来るのではないでしょうか。

杉本:あと面白いのが、ポン・ジュノ監督が今年のクランチロール・アニメアワードの監督賞のプレゼンターを務めた時に、今日本でアニメーションを作っていると発言したんです。パルムドールとアカデミー賞を取った監督が日本でアニメを作るというのは、アニメの文脈を大きく更新することになると思います。

藤津:ただ一方で、国内ではかなり強いジャンルになっているアイドルアニメなどは海外ではどの程度支持されているのか、よくわからないところもあります。

杉本:アイドルものはどの程度かわからないですが、『ハイキュー!!』とか『ブルーロック』は、アメリカの女性アニメファンにも人気らしいですよ。

渡邉:学生からよく聞かれる質問があります。スタジオジブリ作品は世界的に有名で人気も高く、アカデミー賞も受賞しています。一方で、『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』のような日本のアニメーション作品がアカデミー賞を獲得することはないのでしょうか、と。どのように説明したらいいのか迷ってしまいます。つまり、ジブリ作品と、いわゆる日本の典型的なアニメーション作品では、需要や評価基準が大きく異なるということですよね。ただ、この流れや勢いを考えると、10年後のカルチャーシーンがどうなっているのか予測がつきません。そこで質問なのですが、『鬼滅の刃』のような作品や、これから登場してくる新たなアニメーション作品が、アカデミー賞やアヌシー国際アニメーション映画祭といった権威ある賞を獲得する可能性について、どのようにお考えでしょうか? もちろん、これは仮定の話ではありますが。

藤津:賞の立て付けとしては、そもそもある種の文芸性や深さを評価する側面があるので、ヒットの量だけでは選ばれにくい面はあるかもしれません。ただ、その文芸性を評価する概念がいつまで現在のような形で残るのかという話でもありますね。アカデミー賞でもMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)や『スター・ウォーズ』は、特殊効果賞など技術的な評価が中心で、それ以外の賞はそれほどご縁がない。それは作品としてダメという話ではなく、むしろ世界的なIPになったからといって、必ずしも特定の賞を受賞しなくてもいいんじゃないかと思います。賞以外の価値観というものが存在するわけで。

渡邉:アカデミー賞という場の持つ文脈や役割みたいなものは、一定程度は残るのかもしれません。ただ一方で、アニメに対する世界的なリテラシーの変化と共に、評価の在り方自体も徐々に変わっていく可能性はありそうです。

杉本:なので、ジブリ的なアニメといわゆる深夜アニメ的なアニメっていうものの垣根とか境みたいなものを意識する傾向は減っていくのではないでしょうか。『【推しの子】』なども一定の文学性はありますよね『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』がアカデミー作品賞を獲ったことは、時代が確実に変わっている証拠です。20年前にタイムスリップして『エブエブ』がアカデミー賞獲るよと言ってもほとんどの人は信じないと思うんです。マイノリティ表象が評価されたのであって、下品な部分やマルチバース的な設定がどこまで評価されているかは分かりませんけど。

渡邉:国内の受賞の状況はどうでしょうか? 新潟国際アニメーション映画祭などは、欧米のアニメーション映画祭とは異なる文脈を作ろうとしている印象がありますが。

杉本:新潟は今のところグランプリはヨーロッパ系の作品が多いですが、アジアのアニメーションがもっと増えてくれば、欧米の映画祭とは異なる文脈を生み出せて、アジアから世界への窓口になっていく可能性もあると思います。今回訪れてそんな感触を得ました。

藤津:韓国でも個人作家的な長編アニメーションが作られていますから、もう少し韓国のアニメーションが出てくるといいなと思っています、中国は生産量も多く、CGも盛んになってきているので、ちょこちょこ目立った出てきていますね。

渡邉:新潟はまだ国際アニメーション映画協会(ASIFA)の公認にはなっていないですよね。せっかくだからASIFAの公認だった広島国際アニメーションフェスティバル(HAFF)の代わりになれると、より存在感が出てくるんじゃないでしょうか。

藤津:関係者はそこも目標にしているのかもしれません。広島国際アニメーションフェスティバルが終わり、まったく異なる建て付けで始まった、ひろしまアニメーションシーズンも、第2回の今回から長編部門を設けるそうですが、独立した映画祭の体裁ではないんですよね。ひろしま国際平和文化祭という大きな催しの中アニメーション部門という位置づけなので。

杉本:今の日本には、新潟と広島の他、新千歳空港国際アニメーション映画祭と東京アニメアワードもあって、アニメーションの映画祭やアワードが4つほどあるという状況で、東京国際映画祭でもここ数年はアニメーション特集をやっていますし、少しずつアニメーション映画を商業的な価値以外でも具体的な形にして評価していこうという気運が日本にも広がりつつあるように感じます。一般の認知度はまだ分かりませんが、商業的な評価とは異なる物差しを作ることがすごく大事になってきていると思うので、こうした映画祭の存在感はもっと上がってくるのではないでしょうか。
(文=すなくじら)

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