雅な平安王朝の裏で、武士たちが暴力で支配する世界があった 歴史学者が読み解く、血みどろの『源氏物語』

清少納言や和泉式部が仮名文学で雅な貴族の世界を描いていた裏では、暴力が支配する武士の世界があったーー。武蔵大学文学部教授・桃崎有一郎氏の新書『平安王朝と源平武士 ――力と血統でつかみ取る適者生存』(ちくま新書)は、現在放送中の大河ドラマ『光る君へ』などで注目を集める平安王朝の裏側で、源氏と平氏が武士の代表格として確立してゆく血なまぐさい歴史を克明に綴った1冊だ。

2018年に刊行されて話題を呼んだ『武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世』(ちくま新書)の続編にあたる本書は、どのような狙いで著されたのか。桃崎有一郎氏に話を聞いた。(編集部)

■武士が何であるかを語らずして、グランドビジョンは描けない

――本書の帯に『「源氏物語」の裏面史』とありますが、そもそもなぜ、平安王朝と源平武士をテーマとした新書を書こうと思ったのでしょう?

桃崎有一郎(以下、桃崎):この本は、前著である『武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世』(ちくま新書)の続編という位置付けになります。そもそも日本史には「武士はどこからどのように生まれたか?」という謎があり、これまでいろいろな説が唱えられてきましたが、そこには研究者それぞれのバイアスが掛かっていたようなところがありました。言わば、答えありきの説明であることが多かったんです。

たとえば、マルクス主義をもとにした説があります。武士というのは人民の中から生まれてきた「封建革命」でなければならなかった。あるいは、都の人たちにとっては、すぐれた文化はすべて都から生まれなくてはならないわけで、武士もまた、野蛮な東国で生まれたものではなく、あくまでも都で生まれたものではなくてはならなかった。それは、武士が着ている鎧や太刀、あるいは彼らの所作を見ても明らかであるーーというように、結論ありきの武士論ばかりでした。

ただ、結論ありきで物事を当てはめていくのは、やはり科学とは言えないので、そういったものが近年、次々と否定されていきました。ただ、これは90年代ぐらいから歴史学自体にずっと言われてきたことでもあるのですが、それまであった「グランドビジョン」が、新しい研究によって否定されるのはともかく、それに代わる新しいグランドビジョンを、誰も描こうとしなかったんです。そのため、研究がタコツボ化し、ひたすら細かくてマニアックな事例の研究ばかりが多くなって、この国で何があったのかを大きなビジョンで語れる人がいなくなってしまった。武士論というのは、グランドビジョンのひとつの主軸をなすものです。武士が何であるかを語らずして、グランドビジョンを描くことはできません。

――中世は、武士なくしては成立しませんからね。

桃崎:鎌倉幕府が成立した時期をざっくり1200年として、明治維新まで数えても650年ぐらいあります。そのあいだ、この国のいちばん大事なことはすべて武士たちが決めてきました。しかしながら、その武士のことがいまひとつ理解できないというのは、やはり問題がある。それは中世や近世が根本的に理解できないのと同じですから。私自身はもともと中世史を研究したかったのですが、武士のことがわからないままに議論を積み重ねても無駄だということに気づいてしまったんです。そこで、すべての基礎となるような武士論をしっかり考えてみたいと思い、いろいろと調べて書き始めたら、新書3冊分の草稿ができてしまいました(笑)。

――いきなり、3冊分ですか……。

桃崎:はい。その最初の3分の1が、前著『武士の起源を解きあかす』です。平将門の乱(935~940年)が終わって、とりあえず武士が成立したと言えるところまでを書きました。ただ、そこから鎌倉幕府の成立まで――武士が政権を握って、国土の大部分を支配して、治安維持のすべてを担当し、外交を担って、さらには外敵(元・高麗)と戦うところまでは、かなりの飛躍があります。だから次は、なぜそうなっていったのかを考えなくてはならない。ちなみに前著では、古代の様々な勢力が、お互いの長所を提供し合い、欠点を補い合いながら融合して生まれたのが武士であると結論づけたのですが、そのようにいろいろな勢力が混ざったにもかかわらず、なぜそのあとに残ったのが源氏と平氏だけだったのか。多様な要素が融合していることが武士の強みだったはずなのに、どうしてそれが源平という2つに収束していったのか。その部分を解きあかしたくて書いたのが、本作『平安王朝と源平武士――力と血統でつかみ取る適者生存』です。

――その鍵は、大河ドラマ『光る君へ』の舞台にもなっている平安時代の後期にこそあると書かれています。ちなみに本書の序章「王朝絵巻世界の裏面史――隣り合わせの武士の暴力」は、「清少納言は目の前で兄を殺された、という伝承がある」という衝撃的な一文から始まっていて、すぐに引き込まれてしまいました。

桃崎:本書は大河ドラマを狙って書いた本ではないものの、書店には最近、『源氏物語』に関するものや王朝文化関係の本が平積みされているので、それらの本を意識したところはあります。書店では表向きの王朝世界についての本が多く、そのすぐ隣にあったはずの「血みどろの暴力の世界」について書いた本が、ほとんど見当たりませんでした。なので、本書は華やかな王朝文化の本ではないというスタンスを明確にするために「序章」を書き直しました。

■武士の暴力性が社会の必要悪として正当化される

――本書では、藤原道長が権力の頂点へと昇り詰めていく、まさにそれと同じ時代に、武士と呼ばれる人たちが離散集合を繰り返しながら独自の進化を遂げていく流れが書かれています。

桃崎:この時代は、武士たちにとって試行錯誤の時代でした。自分の家をどういう一族として色付けしていこうか、武闘派の家系として売っていこうか、インテリの家系として売っていこうか、その「キャラ作り」を模索している段階と言えばいいでしょうか。院政期、鎌倉時代以降になると家柄というものが固定していき、うちは武士一筋であるとか、各家系のキャラクターがはっきりしていくのですが、摂関政治の時代はまだキャラ作りがブレている。

――同じ家系でも、文人の息子が武人になったり、いろいろですよね。

桃崎:文人の家系にいきなり血に飢えた荒くれ者が出てきたり、貴族の従者だった武士の親族に、地方の盗賊みたいな人が出てきたりする。社会の仕組み自体がまだ完全にはできていなかったので、武士と呼ばれる人たちが今後どのようなポジションになっていくのか、誰にもわからなかったんです。最高権力者と結託して、都で生きていく選択肢もあるし、手段を選ばず謀略と暴力にかまけて地方で生きる選択肢もある。あるいは、地方で頭数を増やしながら、中央とは関係なく生きていく連中もいて。その中でも、本書で取り上げた「藤原保昌(やすまさ)」などは、非常に面白いポジションにいた人物でした。

――「道長四天王」にも数えられる人物で、なおかつ和泉式部の再婚相手でもあるという。

桃崎:そうです。道長には非常に可愛がられていて、「まるで道長の実の息子のようだ」と言われたぐらい才能のある人物だったのですが、その弟である藤原保輔(やすすけ)は、暴力性の権化のような人物だった。だから、保昌自身は相当悩んでいたと思います。しかも、保昌・保輔の姉妹は、悪名高い源満仲に嫁ぐんですよ。

――清和源氏の二代目であり「気に入らぬ者を虫けらのように殺す」ことで有名だった「満仲」ですね。

桃崎:清少納言の兄・清原致信を殺害したのは、源頼信の手の者だと言われているのですが、保昌の姉妹と満仲のあいだに生まれた子どもが、まさにその頼信でした。そもそも、彼の父である満仲というのは、今で言うところの反社会的勢力のボスみたいな人物だったんです。彼の存在は、その後の源氏の躍進にも繋がっています。というのも、平将門の乱で功績を上げたのは、藤原秀郷と平貞盛であって、いわゆる源氏というか、満仲の父である経基は、そこではほとんど存在感を示さなかった。けれども、その子である満仲が頭角を現して、その息子である頼信・頼親兄弟、さらには頼信の息子である頼義の代になると、朝廷からも絶大な信頼を得るようになるんです。

――そのあたりから源氏の存在が、広く認められるようになっていった?

桃崎:そうなんです。そもそも武士は、その暴力性が兵力として発揮されることによって、社会の必要悪として正当化されるようなところがありました。この時代は、暴力性を自分のためにしか使わないような武士もいて、先ほど挙げた藤原保輔などは、まさにその典型でした。そういう人たちはだんだんと消えていって、その暴力性に染まりきれなかった保昌みたいな人もやはり消えていった。その一方で、暴力性を反乱鎮圧という方向に変えていった人たちもいて、頼信・頼親兄弟はまさにそうでした。彼らは決して褒められた人物ではなかったようなのですが、そういう人物が当時の社会には必要というか、こういう人間がいないと困るときがあるなと、人々に認めさせるような事件が起こりました。

――どんな事件だったのでしょうか?

桃崎:たとえば、将門以来の大規模な反乱と言われる「平忠常の乱(1028~1031年)」や「前九年の役(1051~1062年)」の鎮圧です。そこで頼信や、その息子である頼義が活躍しました。たまたま運が良かったのか、あるいは必然だったのかわかりませんが、結果的に彼らの必要性が証明されてしまった。逆に言うと武士は、戦争がないと社会から必要とされなくなってしまうので、常に戦争を必要としていたところがありました。平氏などは、とりわけそうです。平清盛の祖父である平正盛以降の平氏たちは、無理やりにでも海賊討伐をしたり、出世のための戦争を仕掛けたりしてきました。

■キャラクターがいまひとつ見えない貴族たち

――ちなみに本書では、そういった武士たちによる「血みどろの暴力の世界」と、仮名文学に代表されるような「王朝絵巻の世界」を繋ぐキーパーソンとして、藤原道長が登場します。『光る君へ』では柄本佑さんが演じている道長とは、一体どんな人物だったのでしょう?

桃崎:人柄に関しては不明なところが多いです。道長が書いた『御堂関白記』というものが残っているものの、日記を真面目に書くタイプではなかった。漢文の文法もめちゃくちゃだし、どこか書きなぐったような感じがある。それは、道長の直系である近衛家の人たちにも共通していて、彼らは代々日記を書くのですが、1日3行以上は書かない日が極めて多いんです(笑)。最高権力者として、日記を書く責務はあるのですが、細かいことを書くのは自分の仕事じゃないというか、1日3行ぐらいしか日記を書けない。それに比べると、権力の中枢にいない藤原実資が書いた『小右記』などは、実に詳細に書かれています。

――『光る君へ』では、ロバートの秋山竜次さんが演じている「藤原実資」ですね。

桃崎:彼は権力の主流ではない分、自分の存在価値を自分で証明しないといけないので、すごく真面目に日記を書いていたのではないでしょうか。逆に言うと、本当の権力者は敢えて日記を詳細に書かないところがあるというか、それを書くのは下々の者であって、その人たちが頑張って書けばいいみたいなところがあるのかもしれません(笑)。

――「この世をば……」から始まる道長の有名な「望月の歌」も、『御堂関白記』ではなく、実は『小右記』に書かれていたわけですよね。

桃崎:そうなんです。だから、道長自身の人柄はなかなか見えないところがある。私たちは『小右記』などから道長像を組み立てるのですが、実資は道長に対して批判的な人間ですから、彼の日記だけを読んでも道長像は導けない。キャラクターがいまひとつ見えないというのは、この時代の貴族の特色のひとつでもあります。

――というと?

桃崎:彼らはいろんな側面を持っていて、仮名文学とかの世界に出てくる貴族たちと、仕事の現場に出てくる貴族たちが、本当に同じ人格なのかっていうぐらいキャラクターが違っていたりするんです。演じ分けていたのかもしれないし、仕事とプライベートでは人格が違うのかもしれない。ただ、院政期以降はそれぞれの個性みたいなものが、もろに出てくるようになります。それこそ、白河院がどんな人物だったのかは、想像するのにあまり苦労しません。対して、道長とその息子である頼通はいまひとつ人格が見えない。まあ、道長自身が自分の力で政権を奪い取った人物ではないというか、道隆をはじめ、兄たちがバタバタと死んでいったから自分が権力者になったけど、彼が政治家として何かすぐれたことをしたかというと、実はそうでもないような気がしています。

――娘をたくさんつくって、次々入内させていったことぐらい?

桃崎:そうかもしれません(笑)。この時代の政治で権力を持つということは、娘をたくさんつくって天皇に嫁がせて、皇子を生ませることなんですよね。確かにそれも政治には違いないのですが、その後、鎌倉・室町・戦国における丁々発止の政治を見たときに、果たして道長たちのしたことを〝政治〟と呼んでいいのだろうか、という疑問はあります。もちろん、その裏では陰険な策謀はありますよ。花山天皇を無理やり出家させたり(寛和の変/986年)とか、その後、花山法皇を矢で襲撃したり(長徳の変/995年)とか、おかしな事件も起こりましたが、事件のスケールがいちいち小さいんです。

――確かに全部、朝廷内の話というか……。

桃崎:そうなんです。「応天門の変(866年)」だって、門がひとつ焼けただけだし、「安和の変(969年)」も、単なる疑獄事件です。あの時代で、大した事件と言えるのは、それこそ平将門の乱と藤原純友の乱――いわゆる承平天慶の乱ぐらいなんです。だからこそ、それらの乱でひとつ時代が進んだとも言えるわけですが、いずれにせよ摂関政治の最盛期の貴族たちのことはいまひとつわからない。私が思うに、結局そこにあるのは政治ではなく「ガチャ」なんですよね。

――「ガチャ」ですか?

桃崎:自分に子どもをつくる能力があるかどうか、生まれてくる子どもが娘なのか、その娘が皇室に嫁入りできるか、嫁いだ皇族が天皇になれるのか……結局全部、運頼みのところがあるじゃないですか。それはある意味、「ガチャ」のようなもので、中世のような本物の政治ではない。中世の政治では、人と人がもっと濃密にぶつかり合う、駆け引きの迫力があるんです。その選択と結末に、重さがあるというか。けれども、摂関政治の場合はそういうものがあまりないんです。

■天皇にとって何者かがアイデンティティだった時代

――むしろ、その周辺にいた武士たちのほうが日々、政治や駆け引きを行っていた?

桃崎:はい。だからこそ、中世が武士の時代になるのは、ある意味必然だったのだと思います。朝廷の最上層にいる人たちが政治と言えることをしていない裏で、武士たちは自らの生死を賭けて、それこそ生き馬の目を抜くような政治を日々こなし、生き残ってきた。そのため政治力が段違いというか、この両者がネゴシエーションしたときに、朝廷側が相手にならないんです。そうして武士が次第に力をつけていき、「保元の乱(1156年)」とか「平治の乱(1159年)」でいよいよ歴史の表舞台に出てきて、そこから平清盛みたいな人が現れたときに、それに立ち向かう術が朝廷にあったかというと、やっぱりなかったわけです。

――とはいえ、そこで朝廷が滅びなかったのが、ちょっと面白いなと思っています。

桃崎:それについては、私も前著と合わせていろいろ考えたのですが、武士というのは古代の要素を何ひとつ否定してないんです。天皇は邪魔だから王家を滅ぼそう、などという形で古代の要素を排除していない。古代の要素を温存した上で、王臣子孫と武人輩出氏族と地方豪族を組み合わせてみたら、「武士」というものすごいものが生まれてしまった。何ひとつ滅ぼしていないというのは、武士を理解する上で大事なポイントです。

――なるほど。

桃崎:武士は既存の社会と、その構成要素は全部温存しています。朝廷も天皇も、寺社も荘園も、所領制度も何ひとつ壊すことなく、国司というものすら否定することなく、その中でどうやって権力を侵食していくのかが、武士の成立そのものです。前の時代を否定しないところが、武士の大きな特色とさえ言えます。

――そもそも彼らは、地方の山賊のような者たちではなく、清和源氏だったり桓武平氏だったりと、もとを正せば天皇の血筋の者たちだったわけですしね。

桃崎:そうなんです。もともと同じ世界の人間なので、その発想がなかったのかもしれません。既にある世界の中で、自分たちの取り分をどうやって増やそうかと考えながら生きてきた人たちで、新しい何かを生み出すということを実はあまりしていません。

――そのあたりが大陸とは違いますね。

桃崎:その通りです。たとえば中国の場合、異民族が襲ってきて、漢人の王朝を滅ぼします。日清戦争の清だってそうだし、元だってそうだし、隋とか唐だって、実は鮮卑の血を引いています。中国の場合はやたらと外来者がやってくるから、それまであった制度や文化のうち、少なくとも一部を容赦なく滅ぼしてしまう。でも日本の場合は、そういうことは起こらなくて、あくまでも内部から出てきて、次第に乗っ取っていく感じなんです。たとえは悪いですけど、寄生虫がいかに宿主を乗っ取るかという話であって、宿主を殺すという選択肢がない。

――宿主を殺してしまったら、自分たちの実存も成り立たなくなってしまうわけで……。

桃崎:そういうことだと思うんです。いかにこの宿主から養分を吸い取り、自分たちの思うようにコントロールするかという発想。身体そのものを崩壊させるわけにはいかないんです。身体をゼロから作るのは大変ですから。武士が朝廷を滅ぼさなかった理由のひとつは、朝廷のような巨大で複雑な組織を、ゼロからデザインする時間が無かったというのもあると思います。

たとえば、鎌倉幕府が300年続いたら、朝廷のような組織を作れた可能性があるんですけれど、それでもやっぱり時間が足りなかったでしょう。室町幕府も、将軍が権力を握ってからそれを失うまでに、半世紀ぐらいしかなかった。徳川幕府は、比較的それをやり遂げました。徳川幕府はかなり複雑な組織だったというか、武士による官僚制としてはひとつの完成形だと思います。

――巨大で複雑な組織を構築するには長い年月もまた必要なんですね。

桃崎:あと、もうひとつ大事なことは、この時代の人たちは武士も含めて、そのアイデンティティというか、価値観の物差しが天皇だったということです。要は「あなたは天皇にとって、何者ですか?」というのがアイデンティティの測り方だった。たとえば今、こうして話している我々の関係は、我々同士では測ることができないけど、お互いが天皇から見てどういう距離感にいるかがわかれば、ここにいる人間の関係がわかるんです。だから官位というものは廃れなかった。あの時代の官職や官位というのは、見知らぬ人間が同じ場に居合わせたとき、その序列や関係を理解するためのものでもあったんです。天皇というのはひとつの座標系における動かぬ原点として絶対に必要でした。それを清算してゼロから新しいものを作るのには、すさまじい時間と労力が必要で、武士はめんどくさいからやらないわけです(笑)。

――となると、いわゆる有職故実(朝廷や武家の伝来の儀式など)も、やっぱり大事なんですね。

桃崎:大事であり、しかもそれを維持するのはものすごく大変でした。だからこそ、武士はメンテナンス要員として貴族や公家社会を温存するんです。実際、貴族たちはそれを喜んでやるし、武士はそれをやらなくていいから、お互いウィンウィンと言えばウィンウィンの関係だったといえるでしょう(笑)。

――なるほど(笑)。

桃崎:その辺がやはり、中国とは違っています。中国は王朝が滅びるので、いちいち座標系がブレるんです。でも日本は、わかっている歴史の範囲では王朝が変わったことはないので座標系がブレていない。その歴史的背景があるからこそ、中国人と日本人では社会関係の作り方が根本的に違うような気もします。いざとなったら座標系をひっくり返してしまえばいいと考える中国人と、この座標系は動かないという大前提で、どう生きて行こうか考える日本人。我々が思っている以上に、中国人にとって社会というものは不安定なものなのだと思います。それに比べて私たち日本人は、長い歴史を通じてそう簡単にはひっくり返らない足場の上で生きてきた。その感覚はひょっとすると今の日本人のあいだにも、どこか通じるものがあるかもしれません。

(麦倉正樹)

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