卒業証書は「一流の花嫁切符」、入試の競争率は20倍!? 朝ドラ『虎に翼』寅子のモデル・三淵嘉子が通った、キラッキラの〈女子高等師範〉学生生活とは?

(※写真はイメージです/PIXTA)

4月から放送がスタートしたNHK連続テレビ小説『虎に翼』。その主人公のモデルとなった「三淵嘉子」は、女学校時代も一際目立つ型破りな性格だったと言います。本記事では、青山誠氏による著書『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(KADOKAWA)から一部抜粋し、三淵嘉子が通った最難関女学校と、彼女の賑やかな学生生活についてご紹介します。

「女子高等師範」のブランド

昭和2年(1927)4月、嘉子は東京女子高等師範学校の附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)に入学している。

東京女子高等師範学校は、お茶の水女子大学の前身。高等師範学校は現在の大学教育学部に相当するものだが、戦前は男女共学にはなっていなかった。

男子が通う高等師範学校とは別に、この東京女子高等師範学校と奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)、広島女子高等師範学校の3校が設立されていた。戦前の日本では、女子を受け入れる数少ない高等教育機関である。

なかでも東京女子高等師範学校は、明治8年(1875)に開校した日本初の女子師範学校の流れをむ女子の最高学府として世間にその名を知られていた。

開校当初には本校への進学を目的とした基礎教育をおこなう予科を設置していたが、明治15年(1882)にこれを改組した附属高等女学校を開校。女子の最高学府、その附属女学校というブランド力は絶大で、女学校進学をめざす多くの娘たちが憧れる存在となっていた。

それだけに受験の際には志願者が殺到した。嘉子が入学した昭和2年度は、41名の入学者に対して志願者数は801名。競争率は約20倍にもなっていた。しかも、受験生はみんな小学校では学内で一、二を争うような秀才ばかり、狭き門である。

この女学校の生徒になれたなら、世間から頭脳な才女と認められる。家事をそつなくこなし、家を守るのは妻の務めなのだが。社会的地位が高い者の妻ともなれば、社交的な場にでることも多くなるから、夫に恥をかかせない高い見識や教養を身に付けておく必要があった。

最難関の女学校を卒業した娘なら、それについては心配ない。世間はそう見る。良家の嫁にはもってこいだ、と。

実際、縁談を持ちかける時には、「お相手の娘さんは、女子高等師範の附属女学校を卒業しているんですよ」 紹介者は必ずそれを強調してくる。聞いた相手も、「ああ、それなら間違いない」 と、乗り気になって話はとんとん拍子に進んでゆく。

最難関の女学校をめざして猛勉強に明け暮れるのは、結婚の条件を有利にするため。この女学校の卒業証書は「一流の花嫁切符」とも呼ばれていた。

名門女学校で学ぶ才媛のお嬢様なのだが……

東京女子高等師範学校と附属高等女学校は関東大震災で校舎が焼失したのを機に、数度場所を移り、御茶ノ水からに移転した。現在、その場所はお茶の水女子大学と大学の附属高校にそのまま継承されている。

湯島3丁目にあった仮校舎の時は、女学校の正門を入り石段の脇にあるスロープを上ると、3棟の本校校舎が一列に並んで建っていた。その左隣には特別教室棟、講堂などの建物が隙間なくならぶ。

女子の最高学府というわりには附属女学校のほうは粗末な木造校舎が多く、また、附属小学校や幼稚園なども同居しているために敷地は手狭で少し窮屈な感じがする。それでも、この学校に通っていることは、本人はもちろん、家族や親類縁者にとっても誇らしく、隣近所には自慢のタネにもなる。

嘉子も合格通知をもらった時には小躍りして喜び、その制服を着て街を歩くことが誇らしかった。毎日、学校に通うのが楽しくてしょうがない。そんな彼女の学園生活はどんなだったか? 見てみよう。

校庭の片隅にはクローバーが繁る小高い丘があった。放課後や昼休みにクラスメートが集まり、思い思いのひと時を過ごす憩いの場。生徒たちの間では「センチが丘」と呼ばれ、静かに文学のことや人生について語りあう。それには似合いの雰囲気があったという。

才女の集まる難関校だけに、思慮深げな文学少女が多かったようだ。が、そんな校風のなかで、嘉子は少し異彩を放つキャラクター。大きな声でよく笑い、センチが丘の静寂をかき乱すこともしばしば。宝塚

少女歌劇の大ファン、男優の真似をして即興劇を演じ、豊かな声量で歌を披露することもあったという。

休み時間だけではない。体育の授業でも自分で振り付けを考え、クラスの仲間たちを先導して創作ダンスを踊ったことがある。また、1年生の時に卒業生を送る謝恩会の劇では主役を演じ、それが学内で大評判に。上級生たちの間でも名を知られる存在になっていた。

何かをやる時は、いつも彼女が率先して動きその中心で活躍した。「お声が澄んでいてセリフがよく通り、また、歌もお上手でした」学友が証言する。

現代でも女子校では、女同士の疑似恋愛で同級生や先輩に恋焦がれたりするものだが、男女交際に厳しくチャンスのほとんどない当時には、その傾向がもっと強かったかもしれない。目立つクラスのリーダーでかなり男前な性格だった嘉子も、きっと同級生や後輩にモテたことだろう。

お転婆ではあるが、学業成績のほうも飛び抜けて優秀。才女が集まる学校のなかで、こちらでも目立つ存在だった。なかでも数学は大の得意科目だったという。何事も白黒をはっきりつけたがる性分、正解と不正解がはっきりとした科目のほうがしっくりとくるようだった。

喧嘩も多かったが、みんなから好かれていたワケ

積極的で人見知りをしない、コミュニケーション能力も高い。当然、友人は多くなる。友人たちとは仲良く語らうだけではなく、もよくしたという。

正義感がやたらと強いうえに、数学の解答と同じで何事においても白黒をはっきりとつけたがる。自分が納得できないことには、テキトーなを打ってお茶を濁すようなことはしない。とことん相手を追及してしまうことがよくあり、その結果、つい口調が激しくなって口論に発展してしまう。

頭の回転が早く口がよくまわる嘉子なだけに、口喧嘩では誰にも負けない。弟たちが恐怖するゴッド・シスターは、学校でも無敵だった。

しかし、言い負かされても彼女を憎むような者はいなかった。決着がつくと嘉子はすぐ笑顔になって、ふだんと変わらぬ態度で接してくるものだから、「あれ? なぜ私たちは喧嘩していたのだろう」 と、相手もそのペースに乗せられて笑顔になってしまう。

いまも昔も、日本人は欧米人と比較して人と争うことを避ける傾向が強いと言われる。言い争いになりそうな時は口をつぐむ、また、その話題に触れぬよう話題を変える。

我慢ができずに一度やりあってしまえば、その後、関係を修復することができず、シコリが残りつづけることになる。仲直りが下手くそな民族、それを知っているから争いにならぬよう感情を抑えて言いたいことを我慢してしまう。

それが普通なのだ。が、嘉子はこのあたりの感覚が日本人離れしていた。「それはそれ、あれはあれ」と、論争とその他のことを分けて考えていたようである。また、口喧嘩も歌やダンスと同じで、友人たちと一緒に楽しむレクリエーションのひとつと思っていたふしもある。

この頃、嘉子たち一家はに住んでいた。青山霊園の南方、現在の南青山や西麻布のあたり。時代は大名屋敷や身分の高い旗本たちの居住区で、維新後も富裕層が多く住んでいた。

笄川が流れる低地から高台に向かってつづく坂に沿って、広い庭のある家々が建ちならぶ。木々の枝葉が風にそよぐ音が聞こえるほどに、通りは静寂につつまれていた。隙間なく長屋が密集するの下町エリアとは、同じ東京市中でも街の景観や雰囲気がまったく違う。昭和初期に発行された『火災保険特殊地図』を見ると「武藤貞雄」の名が記された家が「笄町157」の地番にみつかる。玄関は市電の軌道が走る通りに面しており、「笄町」の停車場とは目と鼻の先。隣近所の家と比べて家屋が2〜3倍ほど大きく描かれている。また、庭もゆったりと広い。

この高級住宅地でもひときわ立派な屋敷だったことが、当時の詳細地図から見て取ることができる。

青山 誠

作家

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