『硫黄島からの手紙』巨匠イーストウッドが日本を描き、新たな映画の歴史を作る

『硫黄島からの手紙』あらすじ

2006年、硫黄島。地中から発見された数百通もの手紙。それは、61年前にこの島で戦った男たちが家族に宛てて書き残したものだった。届くことのなかった手紙に、彼らは何を託したのかー。戦況悪化の一途をたどる1944年6月。陸軍中将の栗林忠道が本土防衛の最後の砦と化した硫黄島に降り立つ。アメリカ留学経験を持つ彼は、長年の場当たり的な作戦を変更し、部下に対する理不尽な体罰も戒める。絶望を感じていた西郷は希望を抱き始めるが…。

主役もメインも日本人キャストでハリウッドの常識を破る


海外の監督が、日本人をメインキャストとして数多く起用し、日本の物語を映画にする。このレアなパターンを成功させた作品として、たとえばエドワード・ズウィックの『ラスト サムライ』(03)や、マーティン・スコセッシの『沈黙 -サイレンス-』(16)が挙げられる。ただ前者はトム・クルーズのアメリカ北軍士官、後者はアンドリュー・ガーフィールドのポルトガル人宣教師が“主役”の座に位置していた。その他にも第二次世界大戦前後の京都を舞台にした『SAYURI』(05)はタイトルロールの主人公に何故か中国人俳優のチャン・ツィイーが配されたり、日本が太平洋戦争に降伏するプロセスを描き、皇居敷地内でも異例の撮影が行われた『終戦のエンペラー』(12)では、マッカーサーの命を受けた准将(マシュー・フォックス)を中心に描かれた。忠臣蔵を題材にした『47RONIN』(13)に至っては、真田広之、浅野忠信らを差し置いて、キアヌ・リーブスの異邦人が主人公。このように海外の大作として日本が描かれる場合、日本人キャストが多数出演していたとしても、その中心には世界的に名の知られた、おもにハリウッドで活躍するスターが君臨することが常識となっていた。

この常識を大きく変えたのが、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』(06)だった。キャストは日本人、あるいは日系人の俳優で占められ、セリフもほぼすべてが日本語。アメリカ人のキャラクターおよび英語のセリフは、日本兵を捕らえた米兵のシーンや回想などでわずかに出てくるだけ。当然、主人公も日本人。渡辺謙が演じる栗林忠道陸軍中将であった。同じ硫黄島での戦いをアメリカ人兵士の視点で描いた『父親たちの星条旗』(06)との2部作構想とはいえ、アメリカ人の監督、しかも巨匠のイーストウッドがこのような作品を送り出したのは画期的であった。

『硫黄島からの手紙』(c)Photofest / Getty Images

アカデミー賞では作品賞など4部門にノミネートされ、音響編集賞を受賞。『父親たち~』は2部門ノミネートにとどまった。『硫黄島~』は日本語メインの作品だったことで、ゴールデングローブ賞、放送映画批評家協会賞、シカゴ映画批評家協会賞などでは最優秀外国語映画賞に輝く。アカデミー賞における同賞は、アメリカ以外の各国によるエントリーなので、セリフは日本語ながらアメリカ映画の『硫黄島』は対象にならなかった。評価という点でも『硫黄島』は歴史を変えた一作と言えるだろう。

『硫黄島からの手紙』は2006年12月9日に日本で劇場公開された。アメリカではそれからすぐ後の12月20日に公開。当初、アメリカでは翌2007年の公開が予定されていたのだが、作品の評価が予想以上に高かったために急遽、年内の公開に変更となった。つまりアカデミー賞に向けた興行にシフトしたのである。翌年の早い時期よりも、賞レースを照準とした年末公開がふさわしいという判断が下された。

現場で宝物を拾うためにテストは行わない


監督にとって、非母国語がメインとなる作品を撮る場合、俳優のセリフ回しのどこにポイントを置いてOKを出すのか。その基準は難しいはずである。これについてクリント・イーストッドは次のように語っている。

「良い演技というものは言葉に関係なく伝わる。私は脚本を熟知しており、正直な演技をしてもらえればそれで伝わると思っている。心や魂が見えるのが正直な演技。そして演技とは本能的な芸術で、分析しすぎると本質がなくなる可能性もある。だから私は最初のテイクを重視する」

イーストウッドの現場はテイク数が少ないことで知られているが、言語が違っていても俳優の本能を信じていることが、この言葉からよくわかる。本番のためのテストもイーストウッドは極力やらない。西郷一等兵役の二宮和也はテストを行わないことに不安をおぼえ、イーストウッドに理由を聞いたところ、次のような返事をもらって感銘を受けた。

「ニノ、僕は現場に宝物を拾いに来ているんだ。その宝物を集めて映画にする。テストの際に宝物を発見したら、それを捨てるしかないだろう?」

『硫黄島からの手紙』(c)Photofest / Getty Images

イーストウッドは俳優でもあるので、監督の立場にいても演じる側の“気持ち”に深く配慮する。この『硫黄島』でも日本人キャストからの提案に耳を傾け、それが的確だと判断すれば次々と採用した。バロン西中佐を演じた伊原剛志は、目を開いた時に左右の瞳の色が異なっていてはどうかと撮影の3日前にイーストウッドに打診。『ミリオンダラー・ベイビー』(04)のモーガン・フリーマンでも同じことをやったイーストウッドは快諾し、伊原はすぐに眼科で検査を受け、どれくらいの濁りにするかをテストした後に、およそ半日で映画用のカラーコンタクトが完成させた。そのあまりにスピーディな対応に伊原も感銘を受けたという。

演じる自由を与えられた俳優は、むしろ監督への信頼感を増大させる。渡辺謙は、文献はもちろんモデルとなった栗林中将の生家を訪ね、孫や親戚から話を聞くなど念入りなリサーチを経て、英語で書かれた脚本を日本語のセリフに変換する作業も手伝うなど並々ならぬ努力を払ったが、いざ演じる際に参考にしたのはイーストウッド本人だった。イーストウッドの立ち居振る舞い、彼がスタッフと談笑する姿を観察し、栗林中将の演技に役立てたという。このエピソードは、映画の主人公とは監督と主演俳優の一体化であることを証明するかのようだ。

異なる視点を対峙させるイーストウッドの志向


イーストウッドと栗林は、なぜ一体化したのか。そこには栗林中将の経歴も関係してくるだろう。栗林忠道はワシントンやカナダの日本大使館(公使館)での駐在経験があり、英語は堪能。硫黄島での戦いで日本軍を指揮しながらも、その戦いがいかに無謀であるかを熟知していたと考えられる。硫黄島の戦いがアメリカ軍が想定していた以上に長引いたのは、栗林が負けを覚悟でいかに戦いを引き延ばすかに腐心した結果でもある。同じくバロン西も、1932年のロサンゼルスオリンピック馬術で金メダルを獲得しているように、国際的視点に立っていた人である。イーストウッドが栗林や西にアメリカ人のセンスを感じ取ったからこそ、本作を監督できたとも考えられる。国のために自らの命を捧げる当時の日本人の精神についてイーストウッドは「そのメンタリティを理解するのは難しい」と語っている。劇中で最も衝撃的な瞬間として、日本兵たちが「天皇陛下、万歳!」と叫び、次々と自決するシーンが挙げられるが、イーストウッドがその思いを完全には理解できなかったとしても、かろうじて栗林や西の視点に立っていたことで、あのように描写しきれたのだとも推察できる。

激戦が行われた戦いを描きながら、『硫黄島』は戦争アクション大作という印象は少ない。大スケールの戦闘映像は限定的だからだ。ただ、同じ戦いも出てくる『父親たちの星条旗』と2部作としたことで、戦闘シーンでは同じカットが使用されていたりもする。単独作品では描ききれなかったであろうスペクタクル感が加味されたのも事実。『硫黄島』は“銀残し”も思わせるほとんどモノクロのような映像で、『父親たち』もカラー作品ながら、彩度を落とした色調。両作のシンクロにも違和感がない。

『硫黄島からの手紙』(c)Photofest / Getty Images

2本の映画で一作と言ってもいいスタイルで、一人の監督が日本、アメリカ双方の立場を描くというのは明らかに異色のチャレンジだが、そもそもイーストウッドは1本の映画で、2つの異なる視点を同等に描くアプローチを好む。『許されざる者』(92)、『ミスティック・リバー』(03)、『ミリオンダラー・ベイビー』といったアカデミー賞も賑わせた彼の代表作は、すべてその特色が際立っていた。もちろん『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』の両方を観ることで、イーストウッドの志向はよくわかるのだが、どちらか一本を観ただけでも、アメリカおよび日本の視点に偏っていない“神の視点”を感じ取ることも可能だ。

「私が観てきた戦争映画は、どちらかが正義で、どちらかが悪だった。しかし人生はそんなものではないし、戦争もそうではない」

このクリント・イーストウッドの言葉が、2作それぞれに深く込められている。

※文中のコメントなどは、公開時の筆者とのインタビュー、および記者会見から引用。

文:斉藤博昭

1997年にフリーとなり、映画誌、劇場パンフレット、映画サイトなどさまざまな媒体に映画レビュー、インタビュー記事を寄稿。Yahoo!ニュースでコラムを随時更新中。クリティックス・チョイス・アワードに投票する同協会(CCA)会員。

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