人間が死を恐れるようになるのは「死ぬのは怖い」という脳の錯覚

工学博士の武田邦彦氏によると、生まれたときの人間の大脳新皮質は空っぽの状態だが、そこにどんどん情報や記憶が書き込まれていき、次第に自分の人生というものがわかってくるようになる。そして、25歳くらいになると大脳が完成し、その頃から死ぬのが怖くなってくるらしい。

※本記事は、武田邦彦:著『幸せになるためのサイエンス脳のつくり方』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

大脳が完成していくと死ぬことを恐れるようになる

人はなぜ死を恐れるのか――。

通常、こういう疑問は宗教や哲学に属するものですが、ここでは「人間の脳のしくみ」から考察していきたいと思います。

宗教や哲学の大きな問いに、「自分の意思で生まれたわけではないのに、人はなぜ死を恐れるのか」ということがあります。大脳新皮質が発達した人間は、この難題にぶちあたりました。

ブッダはこの難題に対する回答として「すべてのものを捨て去れば、死を恐れることはない」と言っています。

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「私は好奇心が強い。まだ一度も死を経験していないので、一度経験してみたい。死は怖くはない」と言っています。

人間の大脳には真ん中に本能的な脳(反射脳)があり、その外側に感情的な脳(感情脳)があり、 そしてさらにその外側に理性的な脳(論理脳)があります。

問題なのは、いちばん外側にある論理脳=大脳新皮質が脳全体の上に被さってしまっていることです。

たとえば、サメの大脳は先端の小さい部分にしかないため、考えることはできません。ヘビの大脳は魚類よりは大きいのですが、それでもまだまだ小さいので本能で行動します。ネズミは脳の半分が大脳ですが、まだ本能のほうが強い。

ヘビよりも大脳が小さい動物は反射的にしか行動できません。目の前に食物があったら食べる、敵が来たらと逃げる。それでも小さいとはいえ大脳があるので、何か痛い目にあえば、次からはもっと早く逃げようという学習能力はあります。

ネズミぐらいの大脳になると「同じようなことが前にあったかな」という、ほんの少しのエピソード記憶はあります。

霊長類のような大脳になると、しっかりとしたエピソード記憶があり、1年前はどうだったかということが覚えられるのです。そこから「自分の意志」というのが芽生えてきます。

▲大脳が完成していくと死ぬことを恐れるようになる イメージ:grandfailure / PIXTA

この「自分の意志」は、論理脳=大脳新皮質の分野です。

生まれたときの大脳新皮質は何も入っていない、空っぽの状態です。そのため、生まれたばかりの赤ちゃんは、自分が生まれているということにすら気づいておらず、ただ泣くだけです。

3~4歳くらいになると、少しだけ「生」を意識できるようになりますが、8~9歳くらいまでは身近な人が亡くなっても、「死」というものをはっきりとは把握できないと言われています。

10歳くらいになると、「生」と「死」が判断できるようになります。

14歳くらいになると、自我が目覚めて思春期に入ります。「自分は何者だろうか」という疑問を持つようになってきます。

さらに、大脳新皮質にどんどん情報や記憶が書き込まれていき、だんだん自分の人生というものがわかってきます。そして、25歳くらいになると大脳が完成します。そうすると、死ぬのが怖くなってくるのです。

10代の若者が無鉄砲で、あまり死を怖がらないのは、このような脳のしくみからも説明できます。

歳を重ねれば重ねるほど、生きるのに執着するようになります。なぜなら、本能や感情を理性が完全に抑え込んでいるからです。古の知恵を新しい情報が上回り、「自分」中心になる。だから、死にたくなくなる、死が怖くなるのです。

大脳新皮質というのは赤ちゃんのときはっです。ですから、たとえば両親が英語をに話せても、その語学力はまったく赤ちゃんには伝わりません。要するに、大脳新皮質には祖先が営々と獲得してきた知恵が残っていないのです。

では、どこにあるかというと、それは遺伝子や大脳辺縁系、小脳、延髄などいろいろなところにあると言われています。もしかすると、腸に蓄積されている可能性もあります。

本来、私たちは体全体で知覚し、行動すべきなのです。いわゆる「五感」です。

ところが、現代人は五感が鈍り、大脳新皮質からしか判断できないようになっています。自分本位になり、自分さえ得になればよいと思い、それより大きなこと(社会全体のこと)は考えられない……。

生まれるのは自分の意思ではなかったのに、死ぬのが怖くなるのは、大脳新皮質で考えてしまうからです。つまり、「死ぬのは怖い」と脳が錯覚しているのです。

これが、仏教でいう「煩悩」かもしれません。「執着を捨てよ」というブッダの言葉はです。

動物は「群れ」のために死ねるが人間は…?

人間以外の動物は、死ぬことが怖くありません。

たとえば、サケは卵を産むために川に帰ってきますが、オスとメスはお互いに相手を見つけると、メスが川の底に穴を掘り、オスがそれに寄り添い、産卵・放精をします。

産卵が終わると、エネルギーを使い果たしたサケは、数日後にメスもオスも同時に死んでしまいます。同時ということは、病死などではなく自らの意思(本能)で死んでいるということです。

次に、哺乳動物の場合です。哺乳動物のメスには生理がありますが、メスは自分の生理が終わるとほとんどの場合、自殺します。一般的に、野生のメスは群れから離れて、何も食べずに餓死するのです。

群れの食料は一定です。自分が生きていると子どもたちに食料が行き渡らないので、生理が終わったメスは群れを離脱するのです。子どもを産んでないメスでも、生理が終わったらもう自分には役目はないと考え、群れから離れて、餓死します。

オスの場合は、メスより10年ぐらい前に死んでいきます。

▲人間社会は高齢の女性を必要としている イメージ:mmmvideosbg / PIXTA

人間の女性が、生理が終わっても生きているのには理由があります。人間社会は、高齢の女性を必要としているからです。

たとえば、娘が妊娠したら手助けできるし、孫ができたら世話もできます。コミュニケーション能力も高いので、地域の潤滑油としても貢献できます。

ある調査によると、祖母が孫を世話しているときのほうが、祖父が孫を世話しているときよりも、孫の怪我をする割合が3分の1に減るそうです。

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