「離婚したら、娘の小学校受験はムリ?」34歳主婦が、経営者夫との離婚で知った真実

◆これまでのあらすじ

娘を幼稚園に送って家に戻った楓は、自宅に人の気配を感じた。家にいたのは、出ていったはずの夫。

しかし、以前の夫とは別人のように横柄で威圧的な態度で、楓に離婚を迫った。

「考えさせて」とその場での返答を避けたが、優位に立って離婚することを決意した楓は、こっそり録音していた光朗との会話を持って探偵事務所へと行くことにしたのだった。

▶前回:別居して1ヶ月。ある日突然帰宅した夫が、「今すぐ離婚したい」と迫ってきた理由とは

Vol.5 離婚にはお金がかかる

「はぁ…疲れた」

まだ週の半ばだが、気が休まらない毎日に楓の疲労は溜まっていた。娘の花奈を連れてスーパーから帰ってきたところだが、肩にかけているエコバッグが妙に重たく感じる。

だが、すぐにそれは疲労が原因ではないことに楓は気づいた。

― なんだろう…?

なにがどうと言葉にはできないけれど、家の中の空気が、なんとなく違う。

言いようのない違和感を覚え、楓は玄関から上がれずにいた。とはいえ、絶対的な確信はない。

「ママ、どうしたの?」

さっきスーパーで買ったお菓子を手に、花奈は不思議そうな顔をしている。

「ううん。なんでもない。ほら、手を洗ってらっしゃい」

疲れているからだろうか?

あたりをグルリと見回すが、何も変わったところはない。だから、違和感というのは、楓の直感に近かった。

― まさか、また光朗さんが?

自分たちがいない間に、光朗が一度帰宅して出て行ったのではないか?

だが、物が移動されたり、なくなっているような感じはない。

先日の夫との対峙を思い出すと、背中がヒヤリとする。

「まさかね…」

その時、突然「ピンポン!」とインターホンが鳴った。

予期せぬ音に、楓は瞬時に全身を緊張で硬くする。

恐る恐るモニターを見るとそこには、トレンチコート姿の妹…麻美の姿が映っていた。

「なんだ…麻美か。来るなら来るって言ってくれればいいのに」

そう思いながら、楓は解錠ボタンを押す。きっと、自分たちのことを心配して様子を見にきてくれたに違いなかった。

「お姉ちゃん、どう?何か進展した?」

勝手知ったる様子で部屋に上がってきた麻美は、コートを脱いで椅子の背にかけ、ダイニングテーブルの一角に座った。

「もう、麻美ったら。来るなら来るって言ってよ」

気にかけてくれるのは有り難いが、さっきは本当にびっくりしたのだ。

「行くよ、ってLINEしたよ。ところで例の件は進展したの?」

「進展っていうか。今はちょっと言いにくいんだけどさ…」

先日、光朗が突然家に帰ってきた話をしたかったが、花奈に聞かれるのはまずいと思い、楓は口をつぐんだ。

しかし麻美は、ちらりと花奈の方に目を向けてから、「小さい声で」と顔を近づける。仕方なく楓は、テレビに夢中の花奈に聞こえないよう、ヒソヒソと先日の一件を報告するのだった。

「いきなり家に?こわーい!こわすぎる」

大きな声で驚く麻美に、楓は慌てて「しーっ!!」と人差し指を立てる。

「私の知ってるお兄さんからは想像がつかないけど、こっちが本当の姿なのかもね」

光朗は変わってしまったのか、それとも、先日の姿が本当なのか、楓は何度も考えた。しかし、あの夫の豹変ぶりからすると、いきなり変わったと考えるよりも、これまで“良い夫”の仮面をかぶっていたと見る方が腑に落ちる。

「でも、お姉ちゃん。別れたとして…どうやって子どもを育てていくの?」

姉のことを心から心配しつつも、麻美は興味津々な様子だ。姉妹とはいえ、楓よりも現実的で合理主義な妹は、時々こうやって痛いところをついてくる。

「うん、仕事…見つけなくちゃって思ってる」

心では思っているが、現状は何も動けないままだ。そもそも結婚してから仕事は一切していないから、本音を言えば、働くこと自体が不安で仕方がない。

「例えばどんな?何ができて、どういう風に働きたいの?ちゃんとプランを立てたほうがいいよ」

麻美の言うことはいちいちもっともすぎて、楓は小さくため息をついた。そんな楓に、麻美は容赦しない。

「私の大学の先輩は、2歳のお子さん抱えて去年離婚したんだよ。フルタイムで仕事してる人だったから、生活には困っていないみたい」

「そうなんだ。仕事ある人はいいよね。光朗さんからはしっかり養育費もらわないと。でもほんとにくれるのかなぁ」

楓は、先日の光朗が言い残したことを思い出し、麻美に相談する。

「光朗さんはこう言ってたの。『今、離婚に同意するなら、悪いようにはしない。養育費も払う。しかし、君が弁護士に相談したり、両親に相談して事をややこしくするつもりなら、僕も容赦はしないよ』って」

すると麻美は、晴子同様に呆れた様子で、ドンとテーブルを拳で叩いた。

「なにそれ!あいつ、ほんとムカつくね。脅迫だよ。モラハラじゃん。ちなみに、さっき話に出た先輩もね、旦那のモラハラがひどくて協議離婚したの」

「協議離婚…?」

楓は呟きながら、スマホをたぐり「協議離婚」の意味を調べた。

協議離婚とは、妻と夫の両者ともに離婚の意思がある場合に、離婚届を提出することで成立する離婚のことのようだ。

日本の離婚の9割が協議離婚らしい。つまり、調停や裁判などで離婚にまつわる正当な権利を主張する人は、ごくわずかだということになる。

「先輩は、財産分与の話なんて恐ろしくて口に出せず、夫の言い値で決まった養育費をもらってるんだって。ちなみに金額は、1ヶ月3万5千円」

「えっ?たったそれだけ?うそでしょ?それじゃあ、私立小のお受験もできないじゃない…!」

楓は思わず声をあげた。

「お姉ちゃん…もしかして何十万ももらえると思ってたの?でも先輩いわく、調停や裁判なら多少は金額は上がるかもしれないらしいよ」

「じゃあ、その人も調停やればよかったじゃん。なんでやらなかったの?」

楓の何気ない疑問に、麻美はケラケラと笑い始めた。

「やだ、お姉ちゃんってば。さすがセレブ主婦だわ」

麻美に茶化され、楓はムッとする。

「なによ、麻美ったら。わかってるってば、お金と時間がかかるからでしょ?」

そういえば先日、法律事務所で時間と手間について聞いたことを思い出した。

「私の先輩は、住宅ローンもあと25年残っていたし、それに貯金もたいしてないことを知ってたから、財産分与は期待できないってわかってたんだって」

「確かに、取れるものがなければ、離婚までの時間を変に長引かせるのもストレスだよね」

しかし、養育費がたった数万円というのは、心許ない金額だ。これから離婚を考えている楓にとっては不安すぎる話だった。

「先輩は仕事してるし、最悪、養育費が止まっても別に構わないみたい。でも、お姉ちゃんは仕事してないから、数万円じゃ困るよね」

「うーっ…そんなことわかってるよ…」

調停を起こすには、お金と時間がかかる。多少の貯金はあるが、それで足りるのだろうか?万が一、調停が長引いたら?

「離婚をする」という気持ちは、固まっている。

あとは、どういう風に道筋を立て、実行に移すかなのだ。とりあえず、1人で考えていても正解を導き出すことはできなさそうだ。

「養育費が月3万5千円は安いかもしれない。でも、小学校6年、中高6年、大学4年の教育課程まで18年間ずっともらえれば、総額756万円。あるのとないのとじゃ大違いだよ」

子どもの頃から数学が得意な麻美が、頭の中で電卓を叩く。

確か、先日楓がネットで見た記事には、「養育費を継続的に受領できている母子家庭は、全体の2割強ほどしかいない」とあった。

つまり、たとえ少ない金額でも、子どもが成人するまで継続的に受け取れると確約してもらえるなら…調停はやる価値がある。楓はそう確信した。

「ありがとう麻美。とりあえず、このあいだ話を聞きに行った弁護士さんに、相談してみようと思う」

麻美との会話が盛り上がったせいで、帰宅した時に感じた違和感については、いつのまにかすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

翌週。

楓は相談のアポを取って、先日のマリキータ法律事務所に出向いていた。

弁護士の真壁は、また楓がやってくることを分かっていたかのように、明るい笑顔で出迎えてくれた。

「先生。いろいろ考えて、先生に離婚を進めていただきたいんです」

金額や要する時間など心配は尽きないが、それも引っくるめて相談しようと決め、楓はここにやってきたのだ。

「まあ、覚悟を決められたのですね!わかりました。一緒に頑張りましょう」

明るい表情で小さくガッツポーズをする真壁に、楓はホッとする。

「一緒に頑張る」という真壁の言葉に、胸の支えが取れたような気がして、「よろしくお願いします!」と頭を下げた。

それから楓は、光朗が先日一時帰宅をした時の音声を再生し、真壁の意見を仰いだ。

「あら…音声だけ聞いてても、ちょっと怖い感じがしますね。ずいぶん威圧的なものの言い方だわ」

「やっぱり、そうですよね」

何度聞いても、声色、態度すべてが、以前の光朗からは想像もつかないほど荒々しく変化している。

「弁護士に相談するな、と言ったのは、調停になったら楓さんに払わなくてはいけない金額が増えるからでしょうね。

ちなみに、ご主人の年収はいくらかご存じですか?」

そう尋ねる真壁に、楓は俯きがちに答える。

「いいえ。私は月々の生活費をもらっているだけで…。ただ、今住んでいるマンションは登記簿を調べたところ、彼の個人名義でローンはありませんでした。マンションは、子どもが生まれてから買ったものです」

真壁は頷きながら、几帳面にメモを取っていった。

「じゃあ、財産分与を求めれば、マンションの価格の半分は楓さんがもらえる可能性が高いですね。

財産分与は、2人の資産を足して半分こするのが基本です。プラスの財産も、マイナスの財産も」

「負債もですか…」

楓は不安な表情を浮かべる。すると真壁はそれを察してか、「マンションを一括購入する余力がある人が、それを上回る負債があるとは考えづらい」と言って、楓を安心させた。

「一応、私の方からご主人に直接連絡を取って、まずは協議離婚を持ちかけてみますね。話し合いで決まれば時間も短縮できますから。で、もしダメだったら、調停に移行しましょう」

「あの…、一般的にはどのくらい期間がかかるものですか?」

楓は恐る恐る尋ねてみる。

「うーん、そうね。調停になった場合は、1年くらいで終わる人もいれば、3年、4年くらいかかる人もいます。いろいろですね」

「え?4年、ですか?」

楓は驚きのあまり聞き返した。

「ええ。一般的に、資産をお持ちの方ほど長引く傾向です。そりゃ当然よね。誰だって、嫌いな相手にお金は1円だって払いたくないもの〜」

そう言って真壁はおおらかに笑った。

とはいえ、4年は想像以上に長い。

「そう、ですよね…。でも結構かかりますね。長引いている間に子どもも成長しますし、その間に仕事を見つけられるよう頑張ります」

「そうですよ、楓さん。前向きにお考えください。ちなみに今は、生活費は支払ってくれてますか?」

真壁が心配そうに尋ねた。そして、婚姻費用…つまり生活費が払われていない場合は、それを請求することもできるのだと言った。

「ええ。生活費は月末に振り込まれています。金額は30万。光熱費、通信費は引き落とし。この他、日常に使うクレジットカードを渡されています。

それより、先生にお支払いする金額は、どのタイミングでいくら払えばいいんでしょう?」

弁護士費用は、楓が一番不安視していたところだ。真壁はファイルから一枚のチラシのような紙を出し、楓の前に差し出した。

「はいはい。先日お話ししたとおり、養育費調停で40万、財産分与調停で40万の着手金です。でもね、うちの事務所は『女性に優しい』をモットーにしてますので、実はセットプランもあるんですよ」

チラシに書いてあるプランを、楓は思わず読み上げる。

「“マルっと離婚プラン”…ですか?」

「楓さんのような方のために、着手金50万で養育費、財産分与、年金分割、慰謝料まで、マルっとお引き受けいたします!」

真壁は待ってましたとばかりに答える。

「着手金は、20万を最初にお支払いいただけさえすれば、あとはお相手から支払いがあった後に清算するのでご安心ください」

そのうえで、「財産分与の中から成功報酬として1割をいただきます」と、真壁は付け加えた。

法律事務所での相談を終えた楓は、足取り軽く帰路に着いていた。

― よかった。一番心配だった弁護士費用も、どうにかなりそう。

「わかりました、ぜひよろしくお願いいたします」と答えた時の、興奮と安堵感が入り交じったような感情が、まだ胸の中を渦巻いている。

けれど、時刻はすでに正午すぎだ。あと2時間もすれば、花奈を幼稚園に迎えに行かなくてはならない。

自宅マンションに到着し、バッグから鍵を取り出して、玄関のドアを開けた。なんてことはないいつもの動作だ。

しかし、「ガチャ」という音とともに玄関を開けた、その時だった。

楓は瞬時に違和感を覚える。

「あ…これって…!」

先日と、全く同じ違和感。

花奈と一緒に帰宅した時、「何かがいつもと違う」と思ったあの瞬間を思い出し、楓は体を硬くした。

「あっ!」

玄関の真っ正面に位置するリビングのドアは開いていて、リビングの大きな窓から差し込む日差しが眩しい。楓は、たいがい荷物を持って帰ってくることが多いから、リビングのドアを開けっぱなしにしているのだ。

「あの日…ドアは閉まっていた。絶対に」

花奈がドアを開けてくれたから、深く考えずリビングに入っていった。だが、やっぱりあの日は、楓の留守中に光朗が帰ってきたのだと直感した。

「でも、何ヶ月も帰ってきてないのに。こんな直近で2回も帰ってくるなんて、おかしくない?」

なぜ突然家に帰ってきたのだろう。それも明らかに留守を狙っている。

きっと何か理由があるに違いない。その理由はきっと、楓との離婚に関係があることなんじゃないか?

夫の不気味さに、楓の身体からすーっと血の気が引いていく思いがしたのだった。

▶前回:別居して1ヶ月。ある日突然帰宅した夫が、「今すぐ離婚したい」と迫ってきた理由とは

▶1話目はこちら:結婚5年。ある日突然、夫が突然家を出たワケ

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