【桟原将司連載#2】野球好き父のこだわりで譲ってもらった稲尾和久さんの背番号「24」

伝説の投手・稲尾和久さん

【桟原将司 ハナの剛腕道中(2)】よく子供の頃から、その地域のレジェンドみたいな子供がプロ野球選手になるみたいな話ってあるじゃないですか。僕がそこまでだったとは言えませんが、小学校6年生になる頃には身長170センチ近くあって大きい方ではありました。

野球を始めたのは小学2年でした。父に「野球部入れ、入れ」と言われ続けていましたがそのたびに断り続けていました。でも、結局は友達に誘われて一緒にやろうということで自分の通っていた小学校のチーム・泉尾東に入部したんです。

その当時のチームは入部した順番で背番号が割り当てられていました。僕は26番目だったので「26」をつけないといけないのですが、父のこだわりで友人から「24」を譲ってもらってつけることになりました。

というのも父が野球好き過ぎて元西鉄ライオンズのレジェンド・稲尾和久さんの大ファンだったんですね。その背番号を「将司にあげてくれへんか」ということになったわけです。

父は会社員で普通の家庭でしたが、テレビをつけたらいつも阪神タイガースの試合が流れている家でした。今思えば野球好きの父からすれば、息子が少年野球を始めたらうれしい気持ちはわかります。さらに自分の好きな「24」番を背負ってとなればなおさらでしょう。

ただ、2年生から3年というのはまだ小さいので公式戦があるわけでもない。それでも僕たちの所属チームは4、5年生の人数がすごく少なかったという事情があり、3年生の夏頃から5年生の試合に交ざって出場させてもらったりしていたんですね。身長は大きかったですから、あまり違和感なかったんじゃないですかね。

僕たちの少年時代は本当に野球が盛んでした。大阪市大正区の小学校もそれぞれの学校ごとに少年野球チームがあったくらいです。小学4年生になると自分たちの年代の大会もあるんです。僕とバッテリーを組んでいた同級生の捕手も体が大きくて、足も速くてあだ名が「ゴリラ」だったんです。ちなみに今でもまだあだ名は「ゴリラ」なんですけどね。その2人で大活躍させてもらいました。

地域のローカル大会ですが4年生の頃はほぼ負けなし状態です。何度も優勝を経験させてもらいました。大正区では負けなしでした。4年生でも6年生の試合に出場してましたね。自分たちの4年生のチームではキャプテン番号の「10」を背負って、6年生の試合ではマジックテープを剥がして、父のこだわりの「24」で出場していました。

当時の2歳年上の先輩たちが僕のお店に来店された時に言っていました。「お前らのせいで俺らはめっちゃ怒られたんやぞ」って。6年生の試合で僕と「ゴリラ」がめちゃくちゃ打って勝った試合があったそうで、監督は「なんで下級生が打って6年生が打たんのや」と。そんなこと、僕はすっかり忘れてましたけど――。

© 株式会社東京スポーツ新聞社