10年かけて“見つけた”謎に包まれた阪神タイガース第8代監督・岸一郎

ノンフィクション作家の村瀬秀信が『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』(集英社)を出版した。プロ野球経験のない老人であった岸一郎が、阪神タイガース第8代監督へと抜擢された異例の歴史を、球団が愛され続けている理由とともに紐解く物語である。10年をかけて取材をしたという彼に、作品へ込めた岸一郎とタイガースへの想い、作家としての喜びや苦悩をインタビューした。

▲村瀬秀信【WANI BOOKS-“NewsCrunch”-Interview】

プロ経験がない還暦の老人という謎の監督

阪神タイガース第8代監督、岸一郎について綴った『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』。タイガースファンでも知る者は少ない岸一郎について、なぜ本にしようと思ったのかを率直に聞いた。

「スポーツライター、ノンフィクション作家の近藤唯之さんが書いた『プロ野球監督列伝』(新潮文庫)のなかで、“こんな変わった監督がいる”と紹介されていたのが岸一郎でした。ただ、あまりにも突拍子もない話だったので、本気にはせず最初は少し興味をもった程度だったんです」

岸一郎は、監督になってから2か月も経たないタイミングで休養が発表され、そのまま球団から姿を消した。公式の記録もほとんど残っておらず、彼について多くを語る人物は当時いなかったという。

「岸一郎の存在を知ってから、妙にゾクゾクする感覚があったんです。図書館で彼について調べてみると、ほんの少しずつですが面白い話が出てきて、もっと知りたいと思うようになりました。

でも、ノンフィクション作品として本にするのは、かなり大きな夢だと思っていました。公式や新聞などに僅かな情報しか掲載されておらず、調べるにはそれなりの時間と予算が必要なことがわかっていたんです。彼に関連する情報については積極的に収集を続けていましたが、書籍化をするほどの動きはつかめず、気づけば5年の月日が経ってしまいました」

いくら岸一郎に魅力を感じたといっても、情報が少ない状態では本にまとめるは難しい。しかし、村瀬の“知りたい”という原動力は衰えることがなく、5年後に転機が訪れた。

「情報が少なく、ノンフィクション作品にするのは難しいだろうと判断したものの、せめてコラム形式でも彼について書きたいと思っていました。そんななかで、ある編集者の方から“本を書いてみないか”と打診があり、まだ紆余曲折はあるのですが、そこから本格的に岸一郎について取材を進める5年間が始まりました」

この本の終わらせ方が印象に残ったことを伝えると、あとがきを書き終えたときのことについて語ってくれた。

「僕は、コラムでも本でも、とにかく読後感を良くしたいという思いがあります。作品を書き始めてからは、ずっとこの物語をどう終わらせるのかを探っていました。そして、いよいよ本編が書き終わり、あとがきを執筆するタイミングで僕のもとに届いたのは、阪神タイガース、日本一の知らせだったんです。

この本は、タイガースが“なぜ勝てないのか”について紐解くような描写をしているので、書き終わりのタイミングで優勝が決まったのは、まさに運命。そして、終わり方は、本当の意味で僕の手の外に委ねられていましたね」

“べらいち”岸一郎に翻弄された取材

『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』の取材に10年を費やした村瀬に、ノンフィクション作品を書くときの苦労を聞いた。

「岸一郎については、特に現存している資料が少なくて苦労しました。たとえば、この物語の核である、岸が監督を辞めたあと、彼の地元である福井県敦賀市で阪神が試合を開催し、岸がそこに出向いたという話。

敦賀での正式な試合情報は、地域新聞を含めてたどっても、どこにも見当たらなかったんです。結局、当時の関係者に聞き回るしかなかったのですが、岸一郎は“べらいち”であることもわかっていたので、裏取りにはかなりの力を注ぎました」

“べらいち”とは、岸一郎がベラベラしゃべることを意味した造語である。話好きで聡明な彼には、よくエピソードをおおげさにしてしまうクセがあったというのだ。

「在籍している期間も短かったので、彼のことを覚えている人もなかなか見つかりませんでした。選手として岸に仕えた吉田義男さん、小山正明さんに聞いても、そこまで印象的な思い出はない、という感じでしたから。ただ、岸一郎が温厚な人柄だったおかげか、幸いにも当時のことを知り、協力をしてくれる人たちに巡り会えたんです」

こうして世に出された『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』。どのような反響があったのかを聞いた。

「10年かけて取材したこともあり、読んでくださった方からの反応はとても良くて安心しました。ただ、タイガースの関連本は多く出ているものの、岸一郎を知っている人は少ないので、そもそも興味を持ってもらうハードルが高い作品なんです(笑)。

それでも、実際に手に取ってもらえば、面白いと思ってもらえる作品に仕上がったと思います。妻には、10年かけてやっと完成したと言いながら本を渡したら“コスパわるっ!”と言われましたけど」

途方もない時間を執筆に注ぐなかで、心が折れそうになることはないのかと聞くと、こう答えてくれた。

「めちゃくちゃありますよ。というか、今も折れたままです(笑)。捻じ曲げようのない真実がちゃんと存在しているノンフィクション作品というものは、片方からはよく見えても、別の方角からはよく見えないことも多々ある。以前に書いた作品でもそうですが、反響をもらうと同時に、お叱りの声も受けるのはよくあることです。それでいてお金も時間もかかるし、何度やめようと思ったか。これで売れないと本当にキツイですよ……」

光の当たらない人にこそ語れる人生がある

ノンフィクション作品を形にするためには、途方もない時間と予算がかかる。多くの時間を注いでまで取材をしたいと思う人には、どのような共通点があるのだろうか。

「やはり、あまり知られていない人について書きたいという思いがあります。一人ひとりの人生って、本当に面白いんですよ。誰もが知る有名な選手の言葉を世に広めるのも意義のあることですが、僕がやらなくても誰かがやりますよ。

世の中の人の琴線に触れるのは、じつはその辺の道を歩いている愛しい他人だったりします。有名無名関係なく、そんな人生にスポットライトを当てるたくなるんですよね」

たしかに、村瀬の作品は、物語の影に隠れているような存在を描いたものばかりだ。誰もが見過ごしてしまうような小さな輝きを、文字通り時間をかけて丁寧に磨いている。そんな作品を世に出し続けている自身の“作家像”についても、俯瞰して教えてくれた。

「ノンフィクションの作法からは外れて、面白い方向に舵を取ってしまうところはあります。どうしてもテンポよく、クスッとなるような表現を組み込みたくなるんです。ノンフィクションの賞に出したときにも“面白いけど……”となりますが、それは今後の課題ですね。逆に言えば、今回の作品では、岸一郎の人柄やタイガースの歴史について飾らずに描けていると思います」

タイガースは、大阪タイガースを含めた約80年の歴史のなかでも、日本シリーズの優勝が2回しかない。実際に、岡田彰布監督による「アレ」発言が異常な盛り上がりを見せていたのは、まだまだ記憶に新しい。最後に、ここ10年の強くなったタイガースしか知らないファンに向けて、今作をどのように薦めたいかを聞いた。

「この作品は、“いま”につながっている物語なんです。2023年にタイガースが日本一になったときに、“まだ2回目なんだ?”と思った人はたくさんいるはずなんですよね。同時に、“こんな勝てないのに、なんで大阪ってタイガースファンまみれなの?”と疑問をもった人もいるはずです。

この本では、岸一郎の物語を軸にして、タイガースが大事にしているものは何か、こんなに勝てないのになぜ愛されているのか、その部分について描きました。歴史のなかでほとんど語られることのなかった岸一郎、彼についての本がここまで分厚くなった理由は、タイガースを愛する多くの人たちのおかげです。

これから読む人には、強いときのタイガースだけではなくて、弱いときのことも理解してもらい、歴史を辿りながら物語を“いま”につなげてほしいと思っています」

(取材:川上 良樹)


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