成功だけが人生ではない…哲学者〈三木清〉が「希望は決して失われず、人生とともにあるもの」と諭すワケ

(※写真はイメージです/PIXTA)

あなたはどんな希望を抱いていますか? あるいは「希望がない」という方もいるかもしれません。希望とはすなわち将来に対するさまざまな明るい期待のことですが、希望を持って生きていくにはどうすればいいのでしょうか。今回は、小川仁志氏の著書『60歳からの哲学 いつまでも楽しく生きるための教養』(彩図社)より、戦前の京都学派の哲学者である三木清(1897~1945)が著書『人生論ノート』で語った、豊かな人生を送るための方法ついて解説します。

希望は生きるための力

一つの哲学的なテーマについて市民がじっくりと考える「哲学カフェ」という活動があります。私は長年その活動に従事しており、カフェや公共スペースにてファシリテーター(司会者)として対話を導いてきました。

ある時期から、もっと様々な人たちと様々な場所で対話したいと思い、映画館や離島、デイケアセンターなどで哲学カフェを開催しました。デイケアセンターで行った時、ちょうど希望をテーマに語り合いました。参加者は皆デイケアセンターに通われている高齢者の方ばかり。その参加者たちが一様に口にしたのは、希望を持つことの大切さでした。それが生きる原動力になっているというのです。

もちろん内容は千差万別でしたが、希望のない人はいませんでした。人間は生きている限り希望を持つ存在なのかもしれない。その時改めてそう感じたのを覚えています。

三木清は『人生論ノート』の「希望」について論じた箇所で、こういっています。

人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。(『人生論ノート』新潮文庫、P145)

人生には偶然と必然の両方の要素があります。人はそれを運命と呼ぶわけです。その意味で、人生は運命だといっていいでしょう。

他方、希望とは、偶然性に委ねられる人間が、それでも決して失われることなく必然として存在し続けることです。だから希望は運命に似ているといえます。そこで三木は、人生は運命であるのと同じように希望でもあると結論づけたのです。

そういわれてみると、私も常に「なんとかなる」「奇跡が起こる」といったように希望を持って生きてきたような気がします。誰でもそうなのではないでしょうか? 先ほどのデイケアセンターの高齢者たちもそうでした。たとえどんな重い病を抱えていても、どんなに孤独でも、そしてもう余生が残り少ないとわかっていても。

ただ、三木にいわせると、希望は単なる望みとは異なります。何かを得たいとか、こうなりたいなどというのは、単なる望みであって、それは欲望、目的、あるいは期待と変わらないというのです。

希望とは何が違うのか? それは失われる点です。欲望も期待も失われ、消えてなくなることがあります。でも、希望は決して失われず、生きている限り残ります。なぜなら人生と希望はイコールなのですから。

逆にいうと、希望がなくなってしまった時、人は死んでしまうのかもしれません。だから希望は失われるものではなく、常に作り上げていくものだといっていいでしょう。ないから作る。しかも、希望が心の中の産物である限り、物質的な材料は必要ありません。自分の気持ち次第でいくらでも作ることができるのです。

だから三木はこういったのです。「希望は生命の形成力であり、我々の存在は希望によって完成に達する」と。希望を作ることで生命を形成していく。しかも、希望は形成力という力、いわば生きるための推進力でもあるわけです。

現実的に断念して前進する

では、いったいどうすれば人は希望を形成することができるのか? それは三木の思想の根本にある構想力という概念に着目するとよくわかると思います。

三木のいう構想力は、ロゴス(論理的な言葉)とパトス(感情)の根源にあって、両者を統一し、形をつくる働きだと説明されます。つまり、人間が時に理屈で考えながら、時に感情に任せて何かを求める行為、それこそが構想力にほかならないのです。

したがって、希望を形成する時も、私たちはまず感情に任せて突き進むと同時に、理屈で考えて現実的になっていくのだと思います。そうでないと前に進むことはできません。希望の目的は生きることですから、前に進むことが重要なのです。たとえ表面的には諦めたかのように見えたとしても。三木はそのことを「断念」という逆接的な言葉で表現しています。

断念することをほんとに知っている者のみがほんとに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。(前掲書、P150)

たしかに、物理的に無理なことについては、断念することでしか前に進めません。希望を単なる理想として終わらせるか、生きるための推進力として活かすかは、断念できるかどうかにかかっているということです。

実は三木自身、妻との死別、スキャンダルによる仕事での挫折、思想犯としての検挙、戦争というどうしようもないものに翻弄されながら、それでも生きようとあがいてきた哲学者でした。だからこそ断念することと希望を結び付けることができたのでしょう。それは決して失敗でも不幸なことでもないのだと。

失敗を経て人生が開けてくる

同じ『人生論ノート』の中で、三木は成功についてもテーマにしています。そこで彼が強調しているのは、「不成功=不幸」ではないということです。人生は冒険のようなものであって、必然的に成功も不成功も生じるのです。それらすべてひっくるめて人生なのであって、もし成功だけが人生であり幸福の原因なのだとしたら、人生はなんともつまらないものになってしまうではないか、というのです。

彼が痛烈に皮肉っているのは、成功主義者の人生です。

Streber ―このドイツ語で最も適切に表わされる種類の成功主義者こそ、俗物中の俗物である。他の種類の俗物は時として気紛れに俗物であることをやめる。しかるにこの努力家型の成功主義者は、決して軌道をはずすことがない故に、それだけ俗物として完全である。(前掲書、P85)

「成功だけを目指し、そのためだけに努力する人生。それこそ完全な俗物である」というのです。そういう人はひとたび失敗すると、もう人生が終わってしまいます。ほかに人生を支えるものがないからです。仮に一度も失敗せず出世し続けていたとしても、不思議なことにそのような人生が哀れに見えることがあります。それはやはり人生が豊かさを欠いているからではないでしょうか。

人は失敗から学ぶものです。失敗してはいけないと思われがちですが、そうではないのです。三木は不成功は問題ないといっているわけですから、そもそも失敗は否定的なものではないのです。ただこの人生には、うまくいかないことがあるというだけのことです。そのうまくいかないことをいくつか経験して、初めて人生は開けてくるのだと思います。

言い換えると、断念した回数が多いほど、それだけ真理に近づけるということです。三木がいう通り、断念は諦めることではなく、本当に自分が求めるもの、希望の中の希望に近づくための方法なのかもしれません。それに気づいた人、そしてそれを実践できた人だけが喜びの中で人生を終えることができるのでしょう。その場合の死は、希望を失ったゆえの無念な死ではなく、希望と共にある死だと思うのです。三木はその境地に達していたといえます。

戦争のせいで投獄された三木は、そのまま獄死してしまいます。ただ、病床で彼は気づいていたはずです。すべてを断念せざるを得ない状況に追い込まれたにもかかわらず、哲学だけはすることができる。それこそが自らの希望なのだと。

三木が最期に本当にそう思ったのかどうかは定かではありません。48歳という若さで亡くなっているのですから。でも、ある経験が私にそう確信させました。

シンガポールを拠点に活動するアーティスト、ホー・ツーニェンが、京都学派の哲学者たちを扱った「ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声」という体験型の展覧会を開きました。私はその中でVRを装着して獄中に横たわる三木清と一体化する経験をしたのです。

目の前で三木がつぶやくのを聴いているうちに、自分自身が三木にシンクロしたかのような錯覚を覚えました。その時、こうやって横たわりながらも、哲学することをやめなかった彼のそばには、希望もまた横たわっていることを肌で感じたのです。

きっと最後の最後まで、三木は思索を続けていたに違いありません。そうやって最期の瞬間まで思うことができるもの。それが希望の対象なのでしょう。人生を輝かせることができるのは、その人にとっての希望の光だけです。だから自分にとって今何が希望なのか考えることは、とても大切なことなのです。

小川仁志

山口大学国際総合科学部教授

哲学者

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