1980年代のサンアントニオ・スパーズを支えたレジェンド、ジョニー・モア インタビュー

1980年代のサンアントニオ・スパーズで活躍した選手を何人くらい思い浮かべられるだろうか? 例えば、ジョージ・ガービンやアーティス・ギルモアは当時スパーズで大暴れして殿堂入りも果たしているエリートだ。しかしその一人として、ジョニー・モアもまた忘れてはいけない存在だ。彼の背番号「00」は1998年3月20日に永久欠番となり、スパーズからその功績が称えられている。

今もなおコーチとしてバスケットボールに携わっているモアに、80年代のスパーズやルーキー時代のデビッド・ロビンソンについて話を聞いてみた。
取材日: 2024年3月29日

独占インタビュー当日のジョニー・モア(左はインタビュアーの小谷太郎氏、写真提供も)

1980年代もスパーズの雰囲気は特別だった

——今日はお時間ありがとうございます。まずは現在何をされているのか教えてください。

今のメインフォーカスは小学校で特別支援教育の教師をしていることです。この仕事に就いてから10年ほど経ちます。生徒たちが、しっかりと教育面で基礎を確立させて生産的で豊かな人生を送れるよう支援をしています。

——1980年代の現役選手時代について聞きたいことが多々あります。まず当時のサンアントニオのファンは今同様に熱狂的だったのでしょうか? 過去の映像を見ると、ヘミスフェア・アリーナ(1973年から1993年までのスパーズのホームアリーナ)のファンはとても熱意のこもった声援を送っていたように見えます。僕自身もスパーズファンになったきかっけの一つがヘミスフェア・アリーナで応援するファンの熱狂的な姿でした。

ヘミスフェア・アリーナは特別な場所でした。ベースライン・バムス(Baseline Bums=当時ベースライン際の一画に陣取っていたスパーズ公式応援団で、)が先頭に立って我々をサポートしてくれて、対戦チームは彼らとも戦わないといけなかった。少し小さ目のアリーナだったこともあって、ファンとの距離感も近かったです。

ロッカールームからコートに出ていくと、すぐそばにファンがいて、ファンの人たちとの接し方も学ぶ必要がありました。ファンは誰もがチームにとても感謝してくれていた半面、試合に負けると気分を損なう人たちもいました。もしかしたら賭けをしていた人もいたのかもしれないですね。そのため気を付けなければいけない点もありましたが、彼らとの間にできた関係は特別でした。

——スパーズの印象というと1990年代以降の5回の優勝がどうしても先行しがちですが、80年代初期にはとても強かったシーズンが何度もありました。1980-81年はレギュラーシーズン52勝、81-82年は48勝、82-83年は53勝してカンファレンスファイナルまで進出しています。

カリーム・アブドゥル=ジャバー(当時ロサンゼルス・レイカーズ)やモーゼス・マローン(1980年代前半はヒューストン・ロケッツ、フィラデルフィア・セブンティシクサーズに所属)のようなタフなライバルがいましたが、我々は常に競い合っていました。リーグ全体でもチームの実力が拮抗していた中で、我々もとても強いチームでしたね。カンファレンスファイナルを突破することはできませんでしたが、たくさんの試合に勝ちました。

優勝となると様々なことがうまくはまる必要があります。まずは良いチームであること。コーチは指示を出してくれますが、最終的にはゲームは選手ものですから。そのため選手同士密接な信頼関係を築き、ケガをしないことが大事です。あとは多少の運も重要です。1本のシュートが入るか、外れるかで勝敗が決まることもあります。

とにかくファンは最高でした。我々との距離感が近く、皆大声援を送ってくれていたので、彼らはシックスマンのような存在だったんです。おかげでとても特別な時間を過ごすことができました。

——1983年のプレーオフでの個人スタッツを拝見したのですが、11試合で平均22.5得点、14.6アシスト、2.5スティールでした。いつの時代でもプレーオフの大舞台でこれだけの数字をただき出すのは大物ばかりです。カンファレンスファイナルではマジック・ジョンソンやジャバーの“ショータイム”レイカーズと対戦しています。

まず言わせて欲しいのが、レイカーズにはジャバーがいたということです(笑)つい最近レブロン・ジェームス(現レイカーズ)が歴代最多得点記録を破るまで、長い期間ずっとそれを持っていた選手ですよね。レイカーズには、先ほど話した優勝するのに必要なことがそろっていました。

彼らはサンアントニオで試合をするときは、いつも以上に気を引き締めて真剣勝負に向かうんだという意識を持っていたので、僕自身もレイカーズとの対戦はとても楽しめました。プレーオフになると皆自身のゲームのレベルを上げなければなりません。レギュラーシーズンに何を達成できたかは関係なく、全員により質の高いプレー、より密な信頼関係が求められます。スパーズもそれができていたので、高いレベルで競うことができたと感じています。

スパーズ歴代名ガードと自身のスタイルの対比

——キャリアスタッツを拝見しても、NBA2シーズン目はアシストでリーグ1位(平均9.6アシスト)、キャリア通算で平均9.4得点、7.4アシスト、2.0スティールを記録し、平均9アシスト以上、2スティール以上を5シーズンで記録しました。スパーズの偉大なポイントガードと言えば、エイブリー・ジョンソンやトニー・パーカーを思い浮かべる人が多いと思いますが、数字を見ればあなたの実績ももっと称えられてしかるべきですね。

ははは(笑) エイブリーがスパーズに初めて来たときは、新しい環境に慣れるまで僕が彼のメンターのような役割をしていました。パーカーはとても若くしてスパーズに加わりました。彼は真のポイントガードというよりは、リードガードという印象です。ゲイリー・ペイトンのような、何でもできますが得点を中心にチームに貢献する選手です。

僕は“オールドスクール”なポイントガードで、チームを仕切って、皆がゲームに関与できるようにプレーしていました。僕はどうすれば皆がゲームに関与できるのかを理解できていましたし、ガービン、ギルモアやマイク・ミッチェルのような素晴らしいチームメイトもいました。僕のプライオリティーはチーム全員をゲームにかかわらせて、皆が勝つことに貢献しているということ実感てもらうことでした。

2005NBAファイナルでのトニー・パーカー(写真/©佐々木智明)

——1986年に髄膜炎を発症し、長い闘病生活を経てNBAへ復帰しました。キャリアが終わるかもしれないような状況からの復帰は、強い執念がないと達成できなかったのではと察します。どういったモチベーションで疾患と闘っていたのでしょうか?

モチベーションというより、現実の話として神の存在があります。キリストが人生に目的、繁栄、保護を与えてくれます。彼の存在と自分の信念があったからこそ選手として復活することができました。人は誰でも成長する過程の中で、難しい時期を乗り越えギブアップしないことを学ぶものですよ。

「Practice makes perfect(練習が完璧を生む)」という言葉があります。子ども向けのキャンプをするときに、「この言葉を知っているかい?」と聞くと皆「はい」と手を挙げます。僕は「それは違う」という話をします。皆が思っているのは、「Practice makes permanent(練習は継続を生む)で、「Perfect」になるためにはただ練習を繰り返すのではなく、適切な練習を繰り返すことが不可欠です。

適切な行動を通じて成長すれば、やみくもではなく正しいことを実行しなければいけないことも、その実行には献身的な姿勢やハードワークも求められるということも理解できます。プロレベルの選手で差が生まれるのは、バスケットボールIQとコンディショニングです。僕はトレーニングキャンプが始まるときには、もう十分仕上がった状態で臨みましたし、シーズン通してコンディションを維持できたことを誇りに思っています。「大概の選手はシーズン中ではなく、オフシーズンに作られる」というようなことを考えながら、キャリアを過ごしていました。

——NBAでの最終シーズンは1989-90でした。この年は、デビッド・ロビンソンのルーキーシーズンです。ビクター・ウェンバンヤマが今過去に例を見ない選手として取り上げられていますが、当時のロビンソンも7フッター(身長213cm以上の選手)でありながら、超人的な身体能力を持っていて、それまでに見たことのない選手でした。ロビンソンと同じチームでプレーした感想を聞かせてください。

デビッドはとても謙虚な人間です。コート上では何でもできるくらいの素晴らしい才能の持ち主でもありました。記憶をたどると週間最優秀選手、週間最優秀新人を毎週のように受賞していた印象があります。とにかく彼は、ハードワーカーでチームプレーヤーでしたね。

僕が一番共鳴したのは、彼がチームプレーヤーで常に仕事をする準備ができていたことで、僕自身も彼を手助けできていたのではないかと思います。ドラフト後2年間海軍での兵役を満たしてからのNBAデビューなので、途中で何かを投げ出すような気質の人ではないことは分かっていました。ロビンソンのデビューシーズンは、ショーン・エリオットもルーキーでしたが、僕はいつも彼らと「僕用のかばん持ち」のように接して(笑) ときには、バッグの右の持ち手をデビッドが、左の持ち手をショーンに持ってもらったりしていました。

という冗談は置いておいて、彼を始めて見たときから将来殿堂入りするようなフランチャイズプレーヤーになるなと感じていました。チームの一員としてとてもワクワクしましたよ。

——1989-90シーズンのスパーズは、前シーズンよりも35勝多い56勝を挙げました。それだけ勝ち星を挙げられた秘訣は何だったのでしょうか?

ロビンソンが大きな理由だったことは間違いないです。コーチの言うことに選手全員が共感して、目標に向かうことも。私心なくプロとしてのマインドセットを持って仕事に取り組んでいたデビッドの姿勢が周りにも伝染して、皆で仲間意識を持てたのも大きなカギでした。

——2010-11シーズンはオースティン・トロズ(現オースティン・スパーズ=スパーズの下部育成チーム)でアシスタントコーチを務めていました。当時からスパーズは育成リーグを効果的に活用していたと感じています。ダニー・グリーンも在籍していたシーズンでしょうか?

いや、グリーンは翌シーズンだったと思います。オースティンでは良い経験ができました。

たくさん才能のある選手がいて、スキルを磨ける場所を必要としていました。NBAを見渡すと30チームあり、各チームで限られているロスター枠を狙って、何百万人という人たちが競争をしています。組織的なプレーができ、スキルも向上でき、かつNBAのスカウトにも見られているDリーグ(現Gリーグ)の環境には、とても大きな意味があります。ためになったし良いチームに恵まれました。オースティンという名前の選手が在籍していたのですが、彼は後にユタ・ジャズと契約ができました。何人かオースティンからステップアップできた選手がいましたよ。

——今はアラモシティ オールスターズというABAのチームのヘッドコーチですね。

ABAは一度NBAと統合しましたが、今も100チーム近くが所属するリーグとして存続しています。もう何年もコーチをしていますが、所属選手の中には、コスタリカやハーレム・グローブトロッターズ、アメリカ国内の別のリーグやヨーロッパで機会を得た選手もいました。

バスケットボールのキャリアを継続できることは素晴らしいことです。若い選手が多いですが、いつも誰かが見ているということを理解して頑張ってもらいたいですね。僕は選手のスキルやマインドセットを発達させられるよう努めています。試合に出ていなくても、ベンチで座っているときの態度なども見られています。チームにとって建設的な貢献ができるかが、選手としてだけではなく人として常に問われます。

——サンアントニオには何年住まれているのでしょう? この街の魅力を教えてください。

1980年から住んでいるので、40年以上になります。アメリカで一番大きな街の一つですが、小さい街のような感覚で、困っている人を見かけると皆助け合うような習慣があります。様々な文化が共存しているユニークな街でもあります。一度ここに住んでしまうとなかなか外に出ようという気持ちにはなれない街ですよ。軍事基地もあれば、スパーズのようなプロスポーツチームもあれば、大学もあって、家族を育てるには快適なコミュニティです。

この企画は、スパーズのスーパーファンとして知られる小谷太郎さんが立ち上げた「Paint it Silver & Black!」プロジェクトの一環として小谷さんの全面的協力の下でスパーズ周辺の様々な話題を取り上げています。不定期ながら随時楽しい企画をお送りしていきますので、乞うご期待!

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