鳴り物入りでFC東京入団も出場ゼロで引退…。怪我に泣いた男が波瀾万丈キャリアを経て“敏腕実業家”の成功を掴むまで

大学サッカーで名を上げ、将来を嘱望されてFC東京に加入したものの、長年抱えていたひざ痛が我慢の限界を超えた。185センチの長身DF中村亮は2年間の在籍中、公式戦でベンチ入りすら果たせぬまま引退。中学教師や芸能界を経験した後、米国で身に付けた語学力と独創性を活かして起業すると、今では日本の高校生を米国の大学へ送り届ける評判の実業家になった。

全国高校選手権と全日本ユース選手権を1度ずつ制した兵庫の名門、滝川二の出身。2年生だった第77回全国高校選手権県予選は、それまで控えメンバーにも入らなかったのに決勝でいきなり先発した。地元テレビ局のアナウンサーが、黒田和生監督の言葉として「中村は隠し玉」と実況で連呼したという。本大会は韮崎、青森山田、清水商などの強敵を連破して4強まで進んだ。

左利きで小さい頃から大柄の中村は、左SBを専門職にしてきた。韮崎との全国高校選手権1回戦では、鹿島アントラーズなどで活躍した深井正樹とマッチアップ。「レベルが全然違い、軽快なステップでかわされた時に右ひざをねん挫しました」と述懐したが、中学時代から右ひざには爆弾を抱えていたのだ。

両親が教師だったこともあり、教員免許を取得するため日本で唯一の国立体育大学である鹿屋体大に進学し、サッカー部では1年から主力に抜てきされる。3年で全日本大学選手権8強、4年で全日本大学選抜の一員としてユニバーシアード大邱大会を制し、FC東京のほか浦和レッズや清水エスパルス、ヴィッセル神戸から獲得の申し出があった。

2004年にFC東京へ加入した理由について、「原(博実)監督の外から仕掛ける戦い方が好きでした。高校の先輩である加地(亮)さんや金沢(浄)さん、石川(直宏)さんが演じるサイドアタックに魅力を感じたものです」とうなずいた。続けて「ポジションのかぶる三都主(アレサンドロ)も04年の移籍なので、浦和に行ったらえらいことになった。もっとも怪我で何もできませんでしたけど」と笑う。

大きな期待を背負ってスタートしたプロ生活だが、「復帰しては痛み出し、リハビリに明け暮れた2年間」と渋面をつくったように、公式戦ではトップチームの試合に1度も帯同できなかった。中学時代から右ひざ半月板がロッキングし、今でもいうことを利かないそうだ。

在籍当時の監督で、現在は大宮アルディージャのフットボール本部長を務める原は、「ひざが悪かったんだよ」と言った後、「足が速くてフィジカルの強い大柄の左利きで、面白い選手だと思ったけど、治っては悪化する繰り返しでかわいそうだったね」と往時を鮮明に記憶していた。

ただ“治っては悪化”したのではない。04年11月と05年2月に手術したが根治していなかったのだ。「治ったと診断されてリハビリしても、痛くて動けなかった。プロになって練習の強度も一気に上がり、限界がきたんでしょうね」と振り返る。

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05年の秋に契約満了を告げられ、クラブ側で移籍先を探してくれたら徳島ヴォルティスから声が掛かった。しかしひざの痛みに加え精神的にもきつかった2年間を思うと、新天地でも同じ結果になるとの失望感が駆け巡った。「この世界から逃げ出し、苦しみから解放されたい。こんなはずじゃなかった...」というのが本音で、スパイクを脱いで一刻も早く新たな道へ進む決断をした。

引退後の相談窓口がJリーグのキャリアサポートセンターで、ここにいた高校、大学の先輩である元Jリーガーの重野弘三郎が親身になって助言してくれた。人生設計の最終章を教師と考え鹿屋体大に進んだこともあり、06年4月に横浜市内の公立中学で保健体育の教諭に転身する。

「子どもたちのキラキラした瞳と元気さにパワーをもらい、少し病んでいた心が癒された。今でも教え子とは連絡を取り合っています」

サッカー部のコーチも担当し、高校時代から志望していた仕事にやりがいを感じる毎日だった。それだけにさらなる欲がわいてきた。「頑張ってプロまで上がれたが、また違う山に登るチャレンジがしたくなったんです」。1年で教員を辞職した。

次に登る山を模索しつつ、その支度金を調達するためフィットネスクラブや芸能関係の仕事に就いた。モデル業をしていると英語を話すハーフに出会う機会が多くなり、英語をマスターしようと思い立って米国留学を決める。

「元Jリーガーってどうにも居心地が悪く、どこへ行ってもそれを意識しました。金もないのに言い出せず、見えを張らないといけなかった。その鎧を取って裸になれる空間が欲しかったんです。引退後はすぐに手の届く職業を選んだが、今度は10年掛かっても大きな武器になるものを手にしたいという思いが強かった」

日本で勉強した後、ロサンゼルスの語学学校に11年から9か月通ったが、少しも会話が上達しない。友人は英語を話せない留学生ばかりで、現地人と積極的に交流しないと滑らかな英会話はマスターできないと悟った。そこでロサンゼルスの短期大学に入学し、米国人と日常生活を共にすることにした。“10年掛かっても”の決意の表れである。

体育の授業にサッカーがあり、元プロの中村が次元の違うプレーを披露すると、「なんでそんなに巧いの?」とクラスメイトが声を掛けてきた。これがきっかけで米国人のコミュニティーへ入ることに成功し、英会話も驚くほど達者になった。

カレッジ生活を送っていると日本とは異なり、大勢の人々が観戦に訪れる大学スポーツの華やかさに衝撃を受けた。「その筆頭格がアメフトで、ここでの莫大な収益が他のスポーツ競技を支えています。ただ、そんな晴れやかな舞台に日本人はほとんどいませんでした。だから知ってもらおう、知れば留学したくなると思い事業を起こすことにしたのです」

中村が留学した時の世話役だった西村明香とともに13年2月、スポーツと米国留学を支援する株式会社『WithYou』を設立。

取締役の西村は、「大学の監督とつながりができるまで私が一般留学のアテンドをし、中村はサッカー部へ挨拶回りをする毎日でした」と往時を回想。中村は「短大在学中からコネクションづくりのため、3年ほど米国全土を奔走して顔と名前を覚えてもらった。オンラインでなく、直接会うことで誠意を示せたと思います」と説明する。16年11月に日本法人ができるまでの3年半、米国での精勤を続けた。

年を重ねるごとに受け入れてくれるチームが増えていった。両国のサッカーはスタイルが異なり、いくら有能な日本人でも米国のチームでは機能せず、適合しないこともしばしばだ。「この選手が輝けるチームはどこなのか、熟考を重ねて慎重に選考しました。監督の信頼を勝ち得たのは、送った選手が活躍してくれたことに尽きる。目利き違いをしたら失敗していましたね」と語る。

ライバル校の監督から「うちにはもっといい選手を送ってほしい」と要求されたケースもあり、「中村なら好人材を頼める」と監督間で評判にもなった。22年のカタール・ワールドカップのグループリーグで、日本がドイツとスペインを連破したことも日本人の評価を高めたという。

事業が軌道に乗ったのは、意外にも新型コロナウイルスがまん延し始めた20年だ。西村が「入国制限もありましたが、当初希望した人のほとんどが留学したのには驚きました」と振り返ると、中村が「スポーツには夢を叶える力があるから」と付け加えた。「一般留学はいつでも可能ですが、スポーツ留学はパフォーマンスを発揮できる旬の時にしかできない」と熱っぽく語りかけた。

米国の大学指導者を日本に招き、トライアウトと呼ばれる加入テストも実施している。初回は17年4月に行なったが、関東に10人、関西に20人しか集まらなかった。それが今年3月の15回目には関東と関西で310人が挑戦し、選手はアピールに全力を注ぎ、監督は好素材の発掘に熱視線を送った。

トライアウトは毎年1月には必ず開催し、監督に全国高校選手権決勝を観戦してもらう。高校サッカーの高い水準と人気を知ってもらうためだが、理解してもらうまで苦労したそうだ。「クラブチームの選手は欲しいが、日本一になっても高校チームにはいい選手がいない、という認識でした。今は国立競技場の決勝に驚いていますよ」と大笑いした。

この6月には10日(福岡)、11日(愛知)、12日(福島)で16回目のトライアウトを実施する。15年は1人だったが、今年の予定者も数えると留学支援者は513人を数えるまでになった。Jリーガーとしての夢ははかなく、次なる挑戦もなかなか見つからなかったが、“10年掛かっても”の思いで一意専心した末、成功とやりがいを手に入れた。

神戸と渋谷、ニューヨークに事務所を構え、日米を慌ただしく往来。近い将来の夢を尋ねると「選手でなくてもいいんです。送り込んだ学生が運営でもボランティアでも、なんでもいいからワールドカップに携わってくれたら嬉しい」と答えた。

サッカーしか関心のなかった高校生が、英会話にも興味を抱くようにアシストしていきたいという。

「サッカーを入り口に英会話も習得するんだという動機付けが僕らの仕事。一番のやりがいは、その人の心にそういう灯をともすことです」

中村が展開する事業については、大宮の原も知っていた。「アメリカの大学と一緒にやってるんでしょ。アメリカはプロだけじゃなく、能力のある選手は奨学金をもらえるし、すごくいい仕事だよね」と、教え子が栄職にたどり着いたことを喜んだ。

(文中敬称略)

取材・文●河野 正

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