「NYで一緒にプレーできるチャンスがあった」“初代闘将”モーニングがユーイングと交わした会話を告白。90年代名勝負の舞台裏<DUNKSHOOT>

マイアミ・ヒートの“闘将”と言えば今ならジミー・バトラーを思い浮かべる人が多いかもしれないが、長年のファンは“初代闘将”アロンゾ・モーニングを挙げるだろう。

ビッグマンがリーグを支配していた1990年代のNBAにおいて、208cmとセンターの中では大きい部類ではなかったものの、鍛え上げられた屈強な肉体を武器に、NBAキャリア15シーズンのうち約11シーズンをヒートでプレー。2006年にはベテランとして球団初優勝にも大きく貢献した。

1999、2000年に最優秀守備選手賞を受賞し、オールスターに7回、オールNBAチームとオールディフェンシブチームに各2回名を連ねたことに加え、深刻な腎臓病から見事復活してコートへ復帰した不屈の精神の持ち主でもあった。

背番号33はヒートの永久欠番。2014年にはバスケットボール殿堂入りも果たしたレジェンドだが、NBA最初のチームはシャーロット・ホーネッツだった。1992年のドラフト全体2位指名で入団すると、1年目から主力の一角としてフル稼働。その後、95年11月の電撃トレードでヒートへ移籍し、全盛期を迎えた。

ところがその際、実はヒートではなく、ジョージタウン大の“先輩”パトリック・ユーイングが君臨していたニューヨーク・ニックスに加入し、ツインタワーを形成する可能性もあったようだ。5月16日に公開された人気ポッドキャスト番組『ALL THE SMOKE』へ出演したモーニングが当時を振り返っている。
「あのトレードが起こる過程で、俺はパット(ユーイングの愛称)と会話の場を持った。そこで『なぁ、俺はニューヨークであんたとプレーするチャンスがある。LAへ行くチャンスも手にしたんだ。俺が行くことになるのはインディアナ(ペイサーズ)、それかマイアミだと思う』って言ったんだ。そしたらパットが『マイアミへ行くんだ』と言ってきた。

『何だって? 俺たちはニューヨークで一緒にプレーできるチャンスがあって、チャンピオンシップを勝ち獲れるかもしれないんだぞ?』と返したら、パットは『いやダメだ。マイアミへ行って、(パット・ライリーへ)お前を中心としたチームを構築させるんだ』と言ったんだ。『彼の練習量の多さをどう思う?』と聞いたら『お前はジョージタウン出身なんだから、うまくこなせるさ』と言ってきてね」 当時ニックスはパット・ライリーHC(ヘッドコーチ)の下、ユーイングやジョン・スタークス、チャールズ・オークレーらを中心としたディフェンシブなチームで王座獲得を目指していた。

1994年にはNBAファイナル進出を果たすもヒューストン・ロケッツに3勝4敗で敗戦。翌95年はレジー・ミラー率いるペイサーズの前にカンファレンス・セミファイナルで3勝4敗の敗退。ライリーは同年6月に辞任し、9月に96年のドラフト1巡目指名権との交換でヒートへ移籍していた。

ライリーを失ったニックスは、後任にドン・ネルソンHCを招聘。オフェンス面の戦術に秀でた名将は、アンソニー・メイソンをポイントフォワードで起用し、新たなスタイルを構築しようとしていた矢先だったこともあり、ユーイングとモーニングというビッグマンデュオは実現しなかったのかもしれない。
その後ニックスは95-96シーズン途中でネルソンを解任し、アシスタントコーチのジェフ・ヴァン・ガンディがHC代行へ昇格。正式に指揮官となり、恩師ライリーが指揮を執るヒートと1997年から2000年まで4年連続でプレーオフで激突し、死闘を演じた。

今から30年近くも前ということで、モーニングは当時のことを明かす気になったのだろう。ユーイングとモーニングの主戦場はペイントエリアながら、両選手とも当時のビッグマンとしてはミッドレンジジャンパーも上手かっただけに、ニックスで共闘するシーンを見てみたかったと思うファンもいるのではないだろうか。

ただ、ニックスとヒートが繰り広げてきた“仁義なき戦い”は、ジョージタウン大出身の2人のビッグマンが発するあふれんばかりのエナジーも欠かせない要素だった。ユーイングが送った“後輩”モーニングへの助言は、正しいものだったのかもしれない。

文●秋山裕之(フリーライター)

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