岩隈久志キャリアハイの21勝 チームは5位低迷でノムさん「なんでやねん」【平成球界裏面史】

岩隈を迎える野村克也監督(2008年3月)

【平成球界裏面史 近鉄編53】近鉄消滅から4年後の平成20年(2008年)、岩隈久志は21勝を挙げ楽天所属となって以来、初めてらしさを取り戻した。

平成17年(05年)に楽天初年度からエースとして奮投するも、近鉄時代から抱えていた肩痛もあって9勝。翌平成18年(06年)は故障に加えて2段モーション禁止という追い打ちを食らい、完全にフォームを崩した。その結果、肩だけではなくヒジにも負担がかかり〝フォーム迷子〟のまま1年を過ごし、1勝に終わってしまった。

「もう訳が分からないというか頭の中でこんがらがってしまって、その上に故障もあって何をやっていたのか思い出せないくらい混乱していました」

楽天加入3年目となった平成19年(07年)は5勝と失速は否めなかった。近鉄時代の平成15年(03年)と同16年(04年)で2年連続15勝を挙げ、2年で30勝を荒稼ぎした右腕が3年間かけて15勝。閉塞感からの脱却を目指して07年10月に右ヒジの遊離軟骨除去手術を受け、08年の再起を期した。

それでも根本的に崩れてしまったフォームを自分のものにすることは簡単ではなかった。08年の春の沖縄・久米島キャンプでは術後の患部のケアに加え、フォームのバランスにも気を使い続けた。右ヒジの状態を確認しようとブルペンでは200球以上の投げ込みも敢行。万全とは言えないまでも、復活への意欲を表に出すことは忘れなかった。

ただ、オープン戦に入っても結果は出なかった。野村克也監督の脳裏にもチーム内にも新世代のスター・田中将大を開幕投手へという機運が目立ち始めた。だが、岩隈はオープン戦終盤にリミッターを解除。オープン戦最後のロッテ戦で6回無失点と結果を出し、2年連続4度目の開幕投手を勝ち取った。

開幕から2試合目の登板となった3月27日のオリックス戦では楽天移籍後初完封勝利。これで勢いに乗ると近鉄時代の04年に開幕から12連勝した時代をほうふつとさせる快投を続けた。前半戦だけで14勝を挙げるなど快進撃を続け、28試合で201回2/3を投げて21勝4敗、防御率1・87。沢村賞、MVP、最優秀防御率、最多勝、ベストナイン、最優秀バッテリー賞など、投手関連の主要な賞を独占した。

チームは5位に低迷したが、当時の楽天を指揮していた野村監督は「岩隈一人で貯金17もあるのになんでやねん」と独特な表現で岩隈の活躍をたたえた。21勝という数字も1985年の阪急の佐藤義則(当時の楽天投手コーチ)以来、23年ぶり。この頃の投球スタイルが岩隈の完成形に近かった。

「真っすぐを中心に低めに角度のある球で追い込んで、近鉄時代は左打者にはヒザ元のスライダーというスタイルでしたが、右打者も同じように打ち取れるボールが欲しかった。この時期からフォークをしっかり使えるようになって自分の投球スタイルが確立したように思います」

自らを取り戻した右腕は平成21年(09年)のWBCでメジャーリーガーを翻弄することになる。

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