哲学者アリストテレスが唱えた、生きるための究極の目的〈エウダイモニア〉から紐解く「生きがい」を手に入れることの意味

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あなたにとって、生きがいと呼べるものは何でしょうか。趣味でも家族との時間でもなんでもよいのですが、生きがいを持っている人は充実した人生を送れることでしょう。しかし、そもそも「生きがい」とは、いったい何なのでしょう? 今回は、小川仁志氏の著書『60歳からの哲学 いつまでも楽しく生きるための教養』(彩図社)より、古代ギリシアの哲学者アリストテレス(前384~前322)が生きるための究極の目的として唱えた「エウダイモニア」という概念を通して、「生きがい」について考えます。

生きがいとは何か

生きがいは「生き甲斐」と書きますが、甲斐とは値打ちのことなので、生きがいを持っている人は生きる値打ちを知っているということになります。逆に、生きる値打ちがわからなくなった人は、日常を楽しむことができません。だから生きがいが求められるのです。

ただし、何に値打ちを見出すかは人それぞれですから、生きがいはそれぞれが見つけなければならないわけです。予め与えられるものでも、誰かから譲ってもらえるものでもありません。人生の中で見出していかなければならないのです。

そこが最も困難な部分です。そもそも何が自分にとって生きがいなのかわからないし、いったいどうやってそれを探せばいいのか。この二つの問題を解決しなければなりません。

すぐ思い浮かぶのは、快楽を得られるものを手に入れることではないでしょうか。アリストテレスは、一般の人にとっての幸福は快楽だといっています。そしてそうした一般の人たちの生活を次のように三つに分類しています。

彼らの好む生活が享楽的なそれだといえる所以である。けだし、およそ主要な生活形態に三通りがあるのであって、いまいうごとき生活と、政治的な生活と、第三に観照的な生活とがそれである。(『ニコマコス倫理学』岩波文庫、上巻P26)

享楽的な生活においては、物質的な快楽が求められるのでしょう。政治的な生活とは社会生活のことだと思ってもらえばいいのですが、そこでは名誉や徳を求めるといいます。観照的生活というのは少しわかりにくいですが、知性を使って知を追い求める営みのことで、哲学がその典型です。するとそこで求められるのは、知る喜びになるでしょう。

「エウダイモニア=生きがい」を手に入れる

したがって、生活の場面に応じて、こうした快楽を手に入れることができれば、誰しも幸福感を覚えることが可能だということになります。

しかし、そうした生活で得られる快楽はあくまで刹那的な幸福であって、生きがいとは異なります。快楽は永続するものではありませんし、仮にそれが永続したとしても、本当にそれだけで生きる値打ちを感じられるかは別問題だからです。

逆にいうと、快楽が永続し、その快楽の永続こそが生きる値打ちだと心から思えれば、それはその人にとっての生きがいになるといえます。でもそれは、あくまでその人にとっての生きがいです。一般的にこれが生きがいだと定義するわけにはいかないのです。

そこで参考になるのが、アリストテレスが快楽と比較して論じている重要な概念、エウダイモニアです。この語も幸福と訳されますが、先ほどの刹那的な幸福とは質の異なるものだといっていいでしょう。アリストテレスはこういっています。

残された仕事は幸福に関する概観である。われわれは、事実、これをもって人間万般の営みの究極目的となしたのであった―。(前掲書、下巻P218)

食べるのは健康のため、健康は好きなことをするため、好きなことをするのはいい人生を送るため、いい人生を送るのは……。そんなふうにさかのぼっていくと、究極の目的が見えてくるのではないでしょうか。何から始めるにしても、最後は同じところに行き着くはずです。それがエウダイモニアにほかならないのです。だからそれはもう生きるための究極の目的であり、値打ち、つまり生きがいだといえるわけです。

エウダイモニアを生きがいと訳すのは無理があるかもしれませんが、実質的にそのように解することができるということです。こうして比較してみるとわかると思いますが、幸福にはランクがあるのです。これがあれば幸せと感じたとしても、その上にさらに上位の幸福がある場合は、その幸福を手に入れない限り幸せになれません。

その上位の幸福が何に当たるのかは人それぞれですが、自分がそう感じてしまった以上、生きがいを覚えるためにはそれを手に入れる必要があるのです。そしてもうこれ以上はない、これが最上だと思えれば、その人は生きがいを手に入れたことになります。

生きがいを手に入れた人は、いや正確にいうと自分にとって何が生きがいなのか気づいた人は、多少のことで一喜一憂せずに済みます。つまり、生きがいを手に入れた人は、周りの環境に踊らされることがなくなるということです。いわば主体的に生きていくことができるのです。人がなんといおうと、何が起ころうと、自分はこれを追求していく、あるいはこれを大切にして生きていくと思えるのですから。

私も哲学をすることが生きがいだと気づいた瞬間から、ようやく自分らしく生きることができるようになりました。30代半ばのことでした。以来、幸福な毎日を過ごしています。

老年期の生きがい

もちろん、人生のどこかの時点で生きがいが変わるということはあり得ます。その場合はまた最上のものを手に入れなければなりません。

そうするといかにもきりがないようにも思えますが、そう簡単に上位のものが見つかるようなら、それはまだ生きがいとして完成していなかったのかもしれません。にもかかわらず、それこそが生きがいだと思い込んでいたのでしょう。だからよく吟味する必要があるのです。

本当にそれが自分にとっての生きがいなのかどうか。その見極めは難しいですが、アリストテレスが時間に関していっていることが一つヒントになります。

また、幸福は閑暇に存すると考えられる。けだしわれわれは、閑暇を持たんがために忙殺されるのであり、平和ならんがために戦争を行なう。(前掲書、P225)

閑暇とは時間的余裕のことです。ここからわかるのは、「生きがいを見つけるのには時間がかかる」ということでしょう。時間をかければ、吟味する時間も増えます。他の刹那的な幸福と比較しながら、本当にそれが究極のものなのかどうか見極めることができるからです。その時は幸福だと思えたことも、後から考えたらそうではなかったという経験を誰しも持っていると思います。そんな中で揺らぐことのない幸福があることに気づくのです。

もちろん、それが永続するという意味ではありませんし、その必要もないでしょう。生きていれば価値観や自分を取り巻く状況も変わってきますから。その意味で、人生において生きがいが何度か変わるのは仕方ないように思います。

少なくとも、若いころと老年期では違ってくるでしょう。

若いころは人生の先が長いですから、必然的に生きがいは夢と重なってきます。何かを成し遂げることが生きがいになるのです。

これに対して、老年期は若いころに比べるとやれることに制限が出てきます。そうすると、他者に対する希望が生きがいになってくるのです。とりわけ次の世代に対して期待することが喜びであったり、目標になることがあるといえます。孫の成長が生きがいだというお年寄りの声をよく聞くのはその証拠です。ここには自分から他者への転換が見られます。

実はアリストテレスも指摘していることなのですが、エウダイモニアとは決して利己的なものではないのです。老年期に至らずとも、そもそも共同体に生きる私たちは、自分の幸福を他者の幸福と結びつけています。いや、結びつけざるを得ないのです。

はたして不幸な社会で自分だけが幸福でいられるでしょうか? 貧困に喘ぐ人たちや、戦争で傷つく人たちがいる中で、自分だけ幸せだと喜んでいられるでしょうか? そう、本当の生きがいとは社会的なものなのです。

皆さんも、世の中にかかわり、世の中の役に立った時、そうした生きがいのようなものを感じたことがあるのではないでしょうか。社会から恩恵を受けて生きてきた老年期の人の多くが、きっとそう思っていることでしょう。だからそういう人たちにとっての生きがいは、社会を少しでも善くすることにつながっているのだと思います。

引退して暇だから地域のボランティアをやるわけでも、年を取って人格者になったから公益に関心が出てくるのでもありません。長く生きると、世の中に貢献することが生きがいになっていくものなのです。

小川仁志

山口大学国際総合科学部教授

哲学者

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