【特集】戦争伝える地下トンネル 「過去見つめ」記憶の継承

土砂でほぼ埋まった戦争遺構「高槻地下倉庫」第2トンネル群T5の入り口付近=大阪府高槻市
高槻地下倉庫の第2トンネル群のT3内部
高槻地下倉庫の構造
高槻地下倉庫の周辺地図

 「思いきり想像力を働かせて。ここに木の柱を立て、板を渡していたんですよ」。暗闇の中で声が響く。懐中電灯の幾筋もの光が、湿ったむき出しの土壁をなめるように照らした。大阪府高槻市成合の山林にある戦争遺構「高槻地下倉庫(タチソ)」を11月上旬、保存会のメンバーと歩いた。

 ▽松代に匹敵

 太平洋戦争末期、本土決戦が現実味を帯びた1944年秋に旧陸軍が地下司令部建設のため全国各地に掘り始めたトンネル群の一つで、タチソは、高槻地下倉庫の頭文字を取った暗号名だった。

 五つのエリアに大小合わせて約30本の坑道が残る。途中、空襲を受けた川崎航空機明石工場(兵庫県)の代替工場に目的が変更されたが、操業に至らずに終戦を迎えた。皇居や政府機関の移転先として建設が進められた、長野の「松代大本営跡」にも匹敵する規模だったことが、後に判明する。

 ほぼ完成していた第1トンネル群は碁盤の目のように整然と並び、旋盤などの機材も搬入されていた。終戦後、砕石工事で出入り口が壊されるなどし、現在はほとんど中の様子をうかがい知ることはできない。

 今回、見学したのは第2トンネル群のT5とT3。固い岩盤でなく、土とれきがまじった堆積層を突貫工事で掘り進めたが、建築資材の不足もあってか、コンクリートも一部だけ。戦争が終わると、未完成のまま放置された。天井は剥がれ落ち、劣化は急速に進んでいた。

 ▽強制労働

 「うわぁ、中は意外に広いなぁ」「地面がでこぼこで歩きにくい」。この日、タチソと同じような戦争遺構「屯鶴峯」(奈良県香芝市)の地下壕の保存運動に携わっているNPO法人のメンバー数人が一緒に見学した。

 南北に貫通するT5は、4年ほど前の暴風雨で片方の入り口付近の斜面が崩落。倒木がふさぎ、大人が体を通すのもやっとだ。反対側の入り口も流入してきた土砂でほぼ埋まる。中ではコウモリの群れが生息していた。

 「下、気を付けてね。踏まないよう真っすぐ歩いて」。保存会の橋本徹事務局長(76)が声を掛ける。全長約65メートルのT3には、土砂を運び出したトロッコのわだちと枕木がかすかに残る。突き当たりの壁にはこぶし大の穴が数個。爆薬で破壊しようとした跡だ。

 戦時中、大規模な工事現場には朝鮮人労働者がかき集められた。タチソでも約3500人が1日11時間、2交代で過酷な労働に従事し、多数の死傷者が出た。だが終戦直後に、駐留米軍を恐れて関係書類はすべて廃棄されたため、実態はほとんど分かっていない。

 タチソの管理棟で馬の世話をしていた女性(86)は「連日、大量の書類を全部燃やすのを手伝った」と証言するが、当時を語れる人も今やほとんどいなくなった。近くの集落には、労働者が寝起きに使ったバラック小屋が残っていたが、数年前に取り壊された。

 ▽銘板で議論

 遺構をかすめるように高速道路の建設が進み、住宅地も目と鼻の先に迫る。遺構を含む山林は民有地のため、劣化を食い止める措置にも多くの地権者の同意が必要だ。高槻市は撮影・測量して記録資料を残しているが、遺構そのものの保存や公開は「市単独では予算的に難しい」として現段階で検討していない。

 戦後50年の節目に、大阪府と高槻市の共同事業として遺構の銘板が設置されたが、説明文の内容を巡って保存会と激しいやりとりに。結局、「植民地支配」や「侵略戦争」には触れられなかった。さらに20年以上がたち、日本の加害行為を矮小化する動きが活発化する。「今なら銘板の設置すら難しかっただろう」と橋本さんは語る。

 保存会は1カ月に2回ほどのペースで現地案内を続ける。写真展やガイドの養成講座も始めた。だが以前は頻繁にあった地元の小中学校による見学依頼が、約5年前から「崩落の危険がある」との理由で、ぱったりと来なくなった。保存会は「戦争や差別の現実を身近に学べる対象に子どもを連れて行こう、学習させようという意識が、学校現場でも弱まっているのでは」と危機感を持つ。

 戦争の記憶の継承が難しくなる中、遺構をどう保存し、活用していくかは喫緊の課題だ。橋本さんは「過去の戦争をきちんと振り返らなければ、将来の平和はない。行政はいつでも市民が安全に見学できるよう、一部でもいいから保存を検討してほしい」と訴えた。(共同通信=大阪社会部・真下周)

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