太宰治の直筆の書か/小説の一節、「津軽」登場の故人保管

画像太宰治が知人の樋口定男さんに送ったとみられる書。自身の小説「I can speak」の冒頭を書いている

 青森県旧金木町(現五所川原市)出身の作家太宰治(1909~48年)が書いたとみられる書が県内で見つかった。文言は、自身の小説「I can speak」の冒頭の一節。知人の故樋口定男さん=青森市=の元にあったもので、現在は樋口さんの遺族の知人男性が保管している。

 書は額装されていて、縦約17.5センチ、横約67センチの横長の紙に「太宰治」の署名と「I can speak」の冒頭が続く。同作は1939(昭和14)年発表の短編小説。下宿屋で小説を執筆する「私」が、塀越しに女性工員たちの歌声に励まされるとともに、ある工員とその弟のやりとりを聞き、思い巡らす様子が叙情的につづられている。

 書き出しは「くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷(ろうこう)(「狭くむさくるしい町」の意)の内に、見つけし、となむ」と、作者自身の心をうたうように始まる。

 今回の書では、本来は「くるしさは 忍従の夜 あきらめの朝」とあるべき部分が、「くるしさは あきらめの朝 忍従の夜」と順序が逆になっている。

 太宰が正しい順で同じ文言を書いた書は、生家・津島家の元使用人で親交のあった故外崎勇三さん=青森市=に贈ったものがあり、過去に公開されている。

 樋口さんと外崎さんは青森市の東青病院(現青森市民病院)の同僚だった。「津軽」の執筆取材で太宰が青森県を訪れた1944(昭和19)年5月、樋口さんは外崎さんとともに同行して蟹田の観瀾山での花見に参加。二人は「Hさん」「T君」として作中にも登場する。

 太宰研究をしている安藤宏東大教授(日本近代文学)は「樋口さんと外崎さんの二人が知人だったことから、太宰は同じ文言を贈ったのかもしれない」と話す。

 「津軽」では、花見の席で作家の志賀直哉について意見を交わす場面がある。太宰は集まったメンバーが好意的に志賀を語るのが許せず、興奮気味に批判してしまうが、そのシーンに樋口さんは「Hさん」として次のように登場する。

 「ああ、先輩作家の悪口は言うものでない。(略)『日本じゃ、あの人の作品など、いいほうなんでしょう?』と青森の病院のHさんは、つつましく、取りなし顔に言う。私の立場は、いけなくなるばかりだ」

 樋口さんの存在について、安藤教授は「わずかではあるが、作中で志賀直哉を巡って興味深いやりとりをする人物」と位置づけ、樋口さんに書を贈ることで「太宰は志賀を意識しつつ、自分を理解してほしい、という思いを込めたのかもしれない」と語った。

 樋口さんの長女・二川原晶子さん(63)=大鰐町=によると、樋口さんは青森市内に長年住み、2012年に101歳で亡くなった。死後、書は遺族の手元にあったが、現在は二川原さんの知人で平川市の古川常雄さん(85)が保管している。

 二川原さんは「父は寡黙で多くを語らず、書をもらった詳しい経緯は分からないが、床の間に飾って大事にしていた。(太宰をしのぶ)桜桃忌に、父と外崎さんが思い出話をしていたことが懐かしい」と話した。

 ◇

小説「津軽」 太宰治の書き下ろし長編小説。風土記の執筆依頼を受け、1944(昭和19)年5~6月に約3週間にわたって津軽半島を巡り、紀行文にまとめた。同年11月に刊行。故郷への思いを素直につづり、子守だった越野タケとの30年ぶりの再会など人々との交流を温かく描いた。太宰の傑作の一つで、紀行文学としての評価も高い。

あなたにおすすめ