ジョン・スペンサーが語る人生の10曲 

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プッシー・ガロアから『フリーダム・タワー』まで、「可燃性」のブルース・パンカーを振り返る。

過去30年にわたって、ロックンロールの「火薬庫」といわれるジョン・スペンサーは、アメリカのアンダーグラウンドにおいて、絶えずもがき苦しみ、嘆き悲しむ存在であり続けた。それは、プッシー・ガロアの限界を超えた金属ノイズから、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンのハイオク入りの前衛ブルースまで。あるいは、ボス・ホッグのメジャー・レーベルでのダーティーなグルーヴから、ヘヴィー・トラッシュのロカビリーの轟音に至るまで連続している。そして、また再び、最も称賛されている彼のバンド、ドラムのラッセル・シミンズとギターのジュダ・バウアーと組んだジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンが、2015年に10枚目のアルバム『フリーダム・タワー: ノーウェーヴ・ダンス・パーティ』で帰ってきた。

我々は彼を追って、非常に高く評価された彼の録音のいくつかについての話を聞いた。

プッシー・ガロア「HCリベリオン」(1985年)

プッシー・ガロアは友達のジュリー・カフリッツと始めたバンドだ。僕らはブラウン大学を中退したんだ。正確に言うとまだ休学中かもね。僕らは本物のハードコアは演ってなかったけど、絶対的に当時のシーンから影響を受けていた。ハードコアは僕にとって本当の大学だった。ライヴ・ショーのやり方、レコードの出し方やら、ショーの手配の仕方やら、どれだけ勉強になったか。

最初の2枚は、ヴァージニア郊外の住宅のリビングルームにある、バレット・ジョーンズのホーム・スタジオ、「ランドリー・ルーム」で録音したんだ。その最初のプッシー・ガロアのEP、「フィール・グッド・アバウト・ユア・ボディ」の録音で、生まれて初めてスタジオってものに入ったから、何一つわからなかったよ。いきなりプールの深い方に飛び込んで泳ごうとしたようなものだったね。

あの歌は、ジュリーの朗読でマキシマムロックンロール誌のお便りコーナーに届いた手紙を読んでいる。マキシマムロックンロールへの手紙のほとんどは手紙の主たちの「状況」に対する苦々しい不平不満なんだ。どうしたら物事が正しく行われるようになるのかとか、何が間違っていたのか、とかね。これってどこか馬鹿げてるだろ?なぜかというとこうしたことは根本的にパンク・ロックから派生する状況で、僕にとってそれは自由でアナーキーだってことなんだ。僕が思うに、プッシー・ガロアは間違いなくこれをやり込めようとしてた。どれだけ傲慢になってたんだ?それだけじゃなくて、プッシー・ガロアは何かと同じであることにもアンチだった。僕たちはめちゃくちゃ怒っていて、混乱している連中と同じだった。それで僕らも自分たちを取り巻く状況に当たり散らしていたんだと思う。つまり、ディスコード・レーベルの状況にね。僕らはシングルのアートワークに、連中に対するなかばイヤミを込めた。僕らは彼らみたいな人々を知らなかったし、生意気だったろうね。だけどそれが僕らがやってきたことのすべてだ。今じゃディスコードをとてもリスペクトしているよ。

プッシー・ガロア「カント・ティーズ」(1986年)

僕たちは純粋に怒っていたし、その怒りを他人にぶつけたがっていた。だけどユーモアもあったと思うよ。このアホらしい曲「カント・ティーズ」もある意味そうだ。60年代のロックンロールと、すべてのロックンロールに通じるステレオタイプの虚勢の内側を歌ってるんだ。

このクールなリフを使ったのは僕で、前のバンドでも使っていたものだった。ブラウン大では別のバンドにいたんだ。そのバンド名は、少しの間だけプッシー・ガロアを名乗っていた。でもガレージ・バンドそのものだったよ。この曲にどんな歌詞を乗せていたかは忘れたけど、曲は基本的には同じだった。あのリフの心臓部を作ったのが僕とバスター・ラッドで、その名前がクレジットされている理由だ。ジュリーのパートは、スタジオに入ってから彼女が即興で作ったんだ。僕のヴォーカルのテイクを録っている間、彼女はバックグラウンドで金切り声を加えるためにそこに立っていただけなんだけどね。

その頃にはニール・ハーガティが加わってた。彼は驚くべきギター・プレイヤーだったよ。ニューヨークに移った頃、まだギター・チューナーを持っていなかったと思う。お互いにチューニングを合わせていたな。

ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン「アフロ」(1993年)

『エクストラ・ウィドゥズ』はメンフィスに行って録音したんだ。スタックスにハマっていただけじゃなく、サン・スタジオにもやられてたから、聖地巡りでトラック・ダウンをイーズリー・スタジオでやったんだ。サンでは前に仕事をしててね、そこでギブソン・ブラザーズを録音したんだ。セッションは全体にがっかりだったな。部屋に金を払うだけのようなものさ。昔あったはずのクールなマイクも調整卓もテープ・レコーダーもなくなっていたからね。だから、いくつかある昔の有名な場所に行って作業するというのはすごく面白いというものでもなかったよ。

「アフロ」はスタックスについての考察から生まれたんだと思う。また、オーティス(・レディング)やルーファス(・トーマス)を聞いて、というのもある。多くの人たちがあのレコードのギター・ソロについて聞いてくるんだ。ウチのエンジニアのジェイ・ブラウンが言うには、ギター・ソロにとってこうあるべき音量の基準だってさ。実はギターでさえなくて、昔のジュノーのシンセなのに。

ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン「ベルボトム」(1994年)

94年の『オレンジ』以降、いろいろ変わったけれど。僕らはいつもただコツコツやっていただけだった。努力して、本当に一生懸命やって、作りたいと思ったレコードを作り、ツアーをした。僕らが何かを超えられたとすれば、それはハードワークと、汗と、演奏と、人々を熱狂させたことを通じてできたことなんだと思いたいんだ。そう、いろいろ変わったけど、名誉とか、レコード会社がキャデラックで迎えに来るとか、エリック・クラプトンとかからディナーの誘いがくるなんていうことではないんだ。

「ベルボトム」はそもそも倍くらいの長さがあったんだけど、エンド・セクション全体がレコードではカットされたんだ。ストリングのセクションは、僕が聞いたことがある何かで、それがやりたかった。友達がチェロ奏者とヴァイオリン奏者を知っていたから、その友達にそのパートをハミングで伝えたら、彼はいくつか楽譜を起こしてくれた。それで、その2人の弦楽器奏者を入れて、2度演奏してもらったらサウンドがちょっぴり大きくなったね。

ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン「フレイバー Pt. 1 & 2」(ベック、マリオ・カルダートJr.、マイク・D・リミックス)(1995年)

リミックスを出すのは、ラップやヒップホップへの愛やそこから受けた影響の、ある部分、自然な延長線上にあるんじゃないかな。ビースティ・ボーイズはナイス・ガイで、僕らを数週間前座として連れて行ってくれた。ルーツ、ブルース・エクスプロージョン、そしてビースティ・ボーイズだ。ルーツはファースト・アルバムを出したばかりで、20分程度の枠しかなかった。

リミックス物全般について思うのは、僕らはみんなにテープを送って、みんなが好きなように、したかったことができるように促そうとしてるだけなんだ。でも好きなようにやったらぐちゃぐちゃさ。いくつか元に戻して、余計なエディット作業をしなくちゃならない。たぶん僕はやりすぎなのだろうけど、それって元々俺のレコードだぜ。ざまあみろったら!

『オレンジ』を制作していた頃は、ブルース・エクスプロージョンは人気があったし、いろんなレーベルから山のように誘いがあったけど、僕はちっとも関心がなかった。インディペンデント系のままでいたかったんだ。「なあ、俺らにこのロブスターを買うのか、俺たちをここから追い出すのか」ってもんでもなかったから、ほとんど「ノーサンキュー」だった。でもボス・ホッグについては、クリスティーナ(・マルチネス、ボス・ホッグのメンバーで、スペンサーの妻)は乗り気だった。だからボス・ホッグはゲフィンと契約してDGCレーベルになった。その契約でクリスティーナと一緒にロサンゼルスに行った時、確か「ルーザー」がヒットしていて、ベックが受けるインタヴューすべてだか、いくつかでだか、いずれにしろ彼はプッシー・ガロアがどれだけ好きかを話していたんだ。それで、ゲフィンの誰かから彼の電話番号を聞き出した。電話で頼むと、彼は「もちろんだよ、30 分くらいでかけ直す」ってね。

(オリジナル・バージョンでは)ラジオ・シャックでサクションカップのマイクを買って、電話につなぎ、ベックに電話し直したんだ。「OK、今からコントロール・ルームでマジにでかい音で演ればいい」と。ベックの即興テイクは初めてじゃないかな。曲が終わったところで僕が「おお、すごかったぜ」と言っているのが聞こえるよ。

ボス・ホッグ「アイ・ディグ・ユー」(1995年)

僕らはある種のタイプの契約を望んだんだ。もちろん、メジャー・レーベルの契約ではあるけれども、やりたかったことができるようにしたんだ。連中は僕らをスタジオ残して出て行ったよ。つまり、レコードを聴けばわかるけど、ちょっとファンキーだろ。手作り的なファンキーさで、よく磨かれたのや熟練のそれじゃない。僕らは慎重だったし、契約書をよく読んだし、何がどうなるのかを理解していたんだ。

ゲフィンに誘われていた時は、クリスティーナと僕は踏み込んでいって、デヴィッド・ゲフィンともミーティングをした。「それで、ソニック・ユースの例の曲について、どう思っているの?」とか、尋ねたのを覚えている。デヴィッド・ゲフィンはとても誠実だったよ。彼はこんなふうに言ってたと思うよ。「ご存じの通り、私はその曲について話すことはできないが、それ以外については信頼している」と。彼は非常に率直な人に見えたね。

ゲフィンとの仕事は悪くなかったよ。悪い経験じゃなかったけど、僕はそもそも音楽業界の大ファンではないしね。僕らは「ポスト・ニルヴァーナ」の2、3年の時期について話したんだ。あれはゴールドラッシュのような現象だった。僕はその現象にひどく怒っていて、だってあれは終わり以外のなにものでもなかったし、僕はアメリカのアングラとニルヴァーナから出てきて、なにもかもをぐちゃぐちゃにして破滅させるのに成功した人間なんだ。僕はその現象に無傷で入って無傷で抜け出たやつらがいたと思ってる。メルヴィンがそのひとつで、ボス・ホッグもそのひとつ。僕らは今、一緒に新しいレコードを作っているんだ。

ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン「2 カインダ・ラヴ」(1996年)

あるオーストラリアのTV局に「レイジ」って深夜番組があって、ミュージック・ビデオを見せたりするんだ。で、その後、土曜の朝だか日曜の朝だかに「リカヴァリー」という番組をやるんだ。思うに、どちらかというとトークショー的な番組で、あれやこれやのコーナーがあって、バンドが登場するんだ。僕らはそこでこの曲を演奏した。リハーサールなしだったんだけど、僕の頭の中で何かが「やってやる!」ってところをカチっとクリックしたみたいで、キレたんだ。ジュダとラッセルは、単純に僕についてきてくれたよ。オーストラリア放送協会に神の栄光あれ。誰かが「放映中止だ!」って叫びながら入ってきたわけでも、終わった途端に怒り出す奴がいたわけでもないんでね。

笑えるのは2年前、ルーシー・ダイソンっていう若い女性監督で「バッグ・オブ・ボーンズ」って歌のビデオを撮ったときのこと。彼女はオーストラリア出身で、実はあの番組で仕事をしてて、あの時何かの料理の作り方を実演しようとしてたんだ。ビデオ作りで彼女に話しかけたら、こう言われた。「前に会ったことがあるのよ。あなたがリカヴァリーに出た時、わたしもあの場にいたの。ビデオ・クリップを見てくれたら、私が映ってるわ。キッチンのセットのコンロのところに張りついているわよ」だって。

僕は自分が「テルミン奏者」だったって意識は、本当にまったくない。テルミンが良いなと本当に思ったのは、映画『テルミン』を見た時だけで、すごいドキュメンタリーだったね。シネマ・ヴィレッジに見に行ったんだ。チケットを買ってロビーに入ったら、『オレンジ』のデカいポスターが貼ってあるじゃないか。僕が使っていたモーグ・ヴァンガードが線画で描かれているやつ。「うっ、クールじゃん」って思った瞬間のひとつだね。テルミンは美しい楽器だとは思うけど、時々ちょっとひ弱な感じがするんだ。僕はかなり間違った使い方をしているからだと思うけど。レオン・テルミンは、きっと認めないと思うけどね。

ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン「トーク・アバウト・ザ・ブルース」(1998年)

ローリング・ストーン誌の関係だったと思うよ。ジョー・リヴィとのインタヴューから始まったんだ。彼のことは以前、ディティールズ誌で一緒に仕事をしたから知ってたんだ。ローリング・ストーン誌はブルース特集をやっていたから、インタヴューもブルースについて話した。無事終わったよ。でも最初にすごく緊張してて、のぼせちゃったよ。その心配と緊張からあの曲が生まれたんだ。

あの時、僕らのやることなすことすべてについての正統性や妥当性があるのかって疑問で、僕らも批判され始めていたんだ。思うに、おそらくバンド名が違っていたらそんなことは起きなかった。みんな惑わされたんだ。だから、この曲はそうしたことに対する批評だし、似たようなことすべてについて歌っているんだ。

僕らはこの録音をダン・ジ・オートメーターとやったんだ。カルヴィン・ジョンソンと録音したものもいくつか使っている。カルヴィンは交換条件を出した。彼は、「君らが僕とセッションしてくれたらリミックスしてもいいよ」って。だから次に北西部のツアーをしていて、残りが2日くらいになった頃、3日間のオフがあってオリンピア(ワシントン州)に留まりカルヴィンと録音したんだ。ダブ・ナルコティックの連中が彼のハウスにいた時期だ。2、3日かけてドタバタやってできたのがKレーベルの『サイドウェイズ・ソウル』だった。だけど、カルヴィンはこれらの録音のいくつかを持っていくことを快く許してくれた。だから「トーク・アバウト・ザ・ブルース」は昔のダブ・ナルコティックのスタジオで録音したリフからサンプリングして、僕は基本的にはサンプラーをいじって、即興で歌詞をつけただけなんだ。僕はデモをそんなふうに作って、ダン・ジ・オートメーターに渡した。彼は基本的にそれをそのまま受け入れて、あちこち強化してパワフルにしたんだ。

この曲のプロモーション・ビデオは気に入ってるよ。今じゃ、どいつもこいつもコメディーふうや、セレブがカメオ出演しているビデオだ。反吐が出るね。だけど僕らのを観てよ。98年にそんなことやっちゃってるんだぜ。すごい「そっくりさん」バンドだろ!ウィノナ・ライダー、ジョン・C・ライリー、ジョヴァンニ・リビシが登場さ。

ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン「ホット・ゴシップ」feat. チャック・D(2004年)

チャック・Dとの共演さ。誰が思いついたかい?やつはとてもスウィートなナイスガイだ。当時、確か西28番街にラッセル・シミンズのスタジオがあった。フラワー・ディストリクトにあったけど、あそこは今じゃフラワー・ディストリクトですらないね。とにかく彼はスタジオを持っていて、15階ぐらいにそれはあって、窓のひとつからはエンパイア・ステート・ビルが見えたんだ。『ダメージ』(2004年)はそこで書いた。実は『プラスティック・ファング』(2002年)と『ダメージ』の間にはもうひとつお蔵入りしたアルバムがあったんだ。僕らは世に出そうとしていた。僕らはそれをいつも「ブラック・アルバム」と呼んでいた。プリンスの『ブラック・アルバム』へのトリビュートだったんだ。たくさんの曲を書いたし、ちょうどいいスタジオだったんで、すべてそこで録音したよ。

知っての通り、JSBXの曲の中じゃ数少ない、あからさまに政治的な歌だよね。9.11の後だったし、僕らはニューヨークに住んでいるニューヨークのバンドだ。この曲は、とても強いフラストレーションと恐怖から生まれたものだけれど、それは9.11の事件そのものに対するものじゃなくて、どちらかと言うと、国ってものの死がどういうことかを見てしまうことに対するものなんだ。その事件で僕らに起きたことはこうさ。あの朝、僕は息子を学校に送って行ってた。クロスタウン行きのM14ってバスに乗っていて、6番街のほうを見下ろしたら家事が見えたんだ。最初の飛行機が追突した直後で、僕らのバンドのみんなにとっても、とても、とてもパーソナルな「何か」になった。その後続いて起きたことを見て、政府とこの国が何に対してどんな対処をしたかを見た。おそらくこの曲は全体にナイーヴだし、僕が極端に単純化しすぎているのかも知れないが、あの事件の真っ只中にいたんだ。僕らは見ての通りみんな生き残っているけれど、その後、僕らの名においてしでかしたすべての過ちを見て気が滅入ったね。

ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン「ドゥー・ザ・ゲット・ダウン」(2015年)

『ダンス・パーティ』ってタイトルが何ヶ月も頭にあったんだ。で、ある朝、突然ひらめいた。「フリーダム・タワー」なんて言葉を今さら使うなんて考えられない。みんなそれから離れちゃってるって。だけどこのレコードにはピッタリハマったタイトルで、これはつまり…地面に穴があってそれが何年そこにあるかなんてだれが考えるんだい?それで時間がかかった。恥ずかしいよ。そんなわけで新しいレコードはすごくニューヨークに関するものになった。テーマが現れたんだ。有機的な感じでね。アルバムの曲順を考えている時に、このテーマで意味のある曲を意図的に選んだ。僕は29年かそこらニューヨークに住んでいて、人生のほとんどをここで過ごしてきた。でも依然として本当のところ僕は「ニューヨーカー」だって気分じゃないし、この瞬間でやってんらんないね。主張させてもらうよ。

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