【創刊70周年メモリアルビッグ対談 日本鉄鋼業の歩みと課題・展望(1)】〈業界再編・高炉の大統合〉進藤氏「市場成熟、海外展開に照準」、柿木氏「生き残りへ唯一の選択肢」

新日鉄住金・進藤孝生社長(日本鉄鋼連盟会長)/JFEスチール・柿木厚司社長(日本鉄鋼連盟前会長)/司会・一柳正紀鉄鋼新聞社社長

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――本日のテーマは「日本鉄鋼業の歩みと課題・展望」です。忌憚のない意見を頂ければ幸いです。本題に入る前に、少し時間を頂いて、お二人がなぜ、鉄鋼メーカーに入ることになったのか。入社のいきさつなどをお聞かせください。進藤さんは昭和48年、新日本製鉄に入社ですね。

対談するJFEスチール・柿木社長㊨と新日鉄住金・進藤社長

進藤「実はラグビーの縁なんです。私は一橋大のラグビー部でしたが、一橋大は毎年2回、東大のラグビー部と定期戦をしていまして。その縁で、東大ラグビー部のOBで、のちに新日鉄の常務になられた桑原さんと親交がありました。その桑原さんから『新日鉄に来ないか』と誘われたのがきっかけです。桑原さんは当時、室蘭製鉄所の製鋼工場の掛長だったと思います」

進藤「実は、官庁を志望していました。偉そうな言い方になりますが、やはり日本の経済全体に貢献したい、という思いがありました。公務員試験を受験し、二次試験に進んだところで、新日鉄の試験日と重なったんです。桑原さんの誘いもありましたし、当時は偉大な財界人である稲山さんも永野さんもお元気でしたから、新日鉄の中で働くのも日本経済に貢献できるのではと考え、新日鉄の門をくぐることにしました」

新日鉄住金・進藤社長

――昭和48年というと、新日鉄発足から3年。新日鉄は当時、日本最大の民間企業であり、世界最大の鉄鋼メーカーです。相当な貢献ができる会社だったわけですね。

進藤「新日鉄への入社を決めたとき、周囲からは『新日鉄は官僚的だぞ』『(八幡、富士が)合併したのはピークを過ぎたからだぞ』とかいう、やや冷めたアドバイスも頂きました。また、合併に対しては当時、近代経済学者のほとんどが反対しており、ゼミの教授からは『そこへ行くのかね』とも言われました。しかし、ラグビーの縁だけでなく、お会いした新日鉄の先輩方の魅力が大きかった。とにかく天下国家を語るんです。そんな先輩方とお会いしているうちに、ここなら日本経済へ貢献もできるのではとの思いを強くしました」

――柿木さんは昭和52年、川崎製鉄の入社です。なぜ、川鉄だったのですか?

柿木「製造業、特に素材メーカーに行きたいという希望を持っていました。それなら鉄鋼ということで、前年の10月にあった鉄鋼会社の会社説明会に行きました。川鉄だけでなく、新日鉄さんやNKKも訪問しました。正直、どの鉄鋼メーカーという希望はありませんでした。その中で川鉄が一番若い会社、活力のある会社という印象でした。また、列で待っている人が一番少なかったというのもあります(笑い)。その後、面接を受けて、川鉄の方々にさらに好感を持ち、この会社がいいかな、となりました」

――入社しての感想は?

JFEスチール・柿木社長

柿木「間違えたとは思っていません。鉄鋼という業界が自分に合っていたという感じです」

――それでは本題に。まず、日本鉄鋼業の歩みですが、1970年の新日鉄発足を起点にすれば、ほぼ半世紀。この間、全国粗鋼生産は73年度に1億2千万トンに達した後、漸減傾向が続き、98年度には9千万トン際まで落ち込みました。その後、2007年度に過去最高の1億2150万トンを記録しますが、最近は1億1千万トンを下回るレベルで一進一退が続いています。

 その間、業界地図も大きく変わりました。高炉大手同士の大統合がその象徴です。旧川鉄とNKKが経営統合して、JFEが発足したのが03年。柿木さんは当時、統合と聞いて、どう受け止めましたか?

柿木「2000年の製鉄所間の業務提携が最初にあった。その当時は人事労政部の主査で、01年4月の統合発表後には検討委員会のメンバーに入りました。その中で、『統合後の姿』を示した図を見たりすると、やはり、個社では生き残れない、統合は唯一の選択肢という思いを個人的には強くしました。自動車用鋼板の供給地図が大きく塗り替わった『ゴーン・ショック』などもありましたから…。ただ、当時の川鉄社内には『我々だけで十分にやっていける』『社風が違う』といった声が多く、特に部長以下のレベルでは、統合に否定的、悲観的な受け止めが多かったようです。また、統合したら『どのくらい人が減らされるのか』という不安も少なくなかった。何しろ85年の円高不況以降のリストラでは、鉄鋼とは関係のないグループ外への異動も多かったので、それに対する抵抗感も根強くありました。もちろん、こうした不安は統合直前にはずいぶん薄れてきましたが…」

柿木氏「競争力強化に絶大な効果」

――実際に統合して、社風の違いを感じられたことはありますか?

柿木「細かいことでは戸惑いもありましたが、やはり同じ鉄鋼会社なので、最終的には大きな違いは感じませんでした」

――柿木さんが感じられた、典型的な統合効果は何だと?

柿木「当然ですが、規模が大きくなり、高炉2基を休止するなど生産設備集約による効果が大きかった。東西の拠点を生かした、最適な供給体制を敷くことができ、競争力の強化、収益への貢献という面では絶大な効果があったと思います」

柿木「もちろん収益向上は外的要因によるところもありました。当時、統合後にはさらに厳しい環境が待ち受けていると予想していたのですが、実際には中国経済が急成長を遂げるなど、思いもよらない追い風が吹いた。統合によって、当時としては強靭な製造基盤を構築したところに、神風が吹いたというラッキーな面もありました」

進藤氏「技術開発で良い面を融合」

――進藤さんは、新日鉄、住金の統合が決まったときは、副社長でした。

進藤「統合はごく自然に受け止めました。1970年の八幡・富士の合併にさかのぼりますが、この合併も鉄鋼業が成熟過程に入り、産業構造の転換を迫られる中での一つの結論と言ってよいでしょう。その後、高炉休止などの大合理化があるわけですが、それも環境変化への適応策の一つでした。こうした経験を通じて、旧新日鉄の中には、市場が成熟していくとき、それに対応して業界再編を進めていかなければならないという考え方がありました」

進藤「2006年にミッタル・スチールがアルセロールに対し敵対的買収を仕掛け、鉄鋼業の買収問題が浮上したとき、神戸製鋼所さんを含めた3社で業務提携を結びましたが、住金とはその後、関連会社の統合などを推進しました。その素地があったことも大きかった。また、リーマン・ショックの後、国内の鋼材需要が急減し、鉄鋼各社は急速に海外展開を志向します。この時、個社だけで海外に進出して、本当にうまくいくのか、という思いもありました」

――統合効果では、設備集約などによるコスト競争力の向上が代表的ですが、別の面から見れば、人材が増えたり、財務体質が強固になったり、技術の融合などの効果もあると思います。統合して4年が経過しました。統合効果は発揮できていると?

進藤「統合後に環境が悪くなったという現実はありますが、統合効果は確実に出ています。例えば技術開発では、同じテーマに対し旧2社で異なるアプローチで臨むケースもあったのですが、両社が持つ良い面を融合することができています。また鋼管が代表的ですが、製品ラインアップが拡大したことも大きい。設備面では、君津、小倉の高炉休止に加え、下工程ではすでに十数ラインを止めました。さらに関連会社の統合、保有株式の整理などによる事業の効率化、財務体質の強化といった面でも統合効果は確実に出ています」

――旧住金は関西系企業です。一方、旧新日鉄は「鉄は国家なり」を体現する会社。社風の違いによる戸惑いはありませんでしたか?

進藤「心配はしましたが、うまくいっています。実は旧新日鉄もそうですが、旧住金にも結構理屈っぽい人が多い。物事を決めるときは、理屈と理屈でうまくかみ合う(笑い)。新日鉄も以前に比べると、理屈っぽさは薄れていましたから…。結局、社風がそんなに違うとは思えなかった」