【熊本城のいま】倒れない天守造った男たち(中)

画像熊本城天守閣の構造計算を担当した服部正さん(構造計画研究所提供)

 1877(明治10)年の西南戦争で、熊本城の木造天守閣は焼失した。熊本城調査研究センター(熊本市)の職員は「火の勢いで、石垣の穴蔵(地下空間)は“かまど状態”だっただろう」と推測する。

 火災によるダメージに加え、1960(昭和35)年の天守閣再建まで83年間にわたって風雨にさらされ、野ざらし状態だった石垣。木造よりも重い、鉄筋コンクリートの天守閣を支えられるはずもなかった。

 東工大教授で天守閣の設計者、藤岡通夫[みちお]さん(1908-88年)は、著書『城と城下町』にこう記している。「石垣には目方をかけないようにしなければならないので、余計に基礎と構造体の関係は複雑になる」

 藤岡さんが構造計算を依頼したのは、同じ東工大出身の工学博士・服部正[まこと]さん(1926-83年)。東京で「服部正構造計画研究所」(現・構造計画研究所)の所長だった服部さんが重視したのは、7千トンもの天守閣の重さを支える丈夫な基礎だった。

 事前に別の業者が実施したボーリング調査では、熊本城がある茶臼山[ちゃうすやま]の地層は阿蘇山の噴火による火山灰が堆積したもので、硬い地層はなく「地下34メートルの辺りに硬い岩盤がある」と報告されていた。

 ところが、ここで大きな問題にぶつかった。「実際に地下を掘ってみると、『岩盤』とされていたのは巨大な岩だった」。同研究所の元職員で、服部さんの“右腕”だった須賀正次さん(85)=千葉県習志野市=が証言する。

 さらに掘り進めるが、40メートルに達しても続く火山灰の層。そこで服部さんが決断した。「一度地盤を確認しよう。下まで降りよう」。須賀さんも一緒にロープにぶら下がり、地中へ向かった。

 「そりゃ怖かった。地中から上を見たら、月のような小さな明かりだけが見えた」と須賀さん。最終的には地下約47メートルの位置まで掘削し、コンクリートの基礎(深礎)が設けられた。現在大天守は8本、小天守は4本の基礎が支えている。これが2度の激しい揺れから天守閣を救い、文化財である石垣をほぼ守った。

 服部さんの長男で、現研究所社長の服部正太さん(60)=東京=は「熊本城天守閣の地震に対する耐性係数(地域係数)は、基準の25%増しで計算していた」と言う。はっきりした理由は分からない。ただ「服部正のポリシーは、経済効率や法律基準をクリアするだけでなく、自分が納得するまで社会的に意味のある仕事をする、だった」と正太さん。

 研究所は熊本城天守閣の再建工事を“縁”に、1984年、大津町に支社の「熊本構造計画研究所」を設立。阿蘇が一望できる事務所の場所は、正さんが56歳で亡くなる直前に決めたという。(飛松佐和子)

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