伯国発見直後の或るユダヤ人=「パウ・ブラジル商人」の肖像=聖市ヴィラ・カロン在住 毛利律子

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フェルナン・デ・ノローニャ島の場所(ウィキペディアより)

 ブラジル北東部のペルナンブッコ州とアフリカ大陸の間の大西洋に、「フェルナンド・デ・ノローニャ島」という国内屈指の観光地として繁栄している群島がある。2001年に世界遺産リストに登録され、登録名は「フェルナンド・デ・ノローニャ諸島とロカス環礁の保護区群」である。
 そこは、フェルナンド・デ・ノローニャ島を中心に、20の火山島などの島々から成り、人口は約3500人(2012年)。ブラジル本土のレシーフェやナタールとの間に、1日3便の定期航空便が運航されている。
 近年の哀しい出来事としては、2009年6月1日、エールフランス447便墜落事故の際に、事故現場が近いことから捜索・残骸回収の拠点となった場所でもあった。
 筆者はまだ一度も訪れたことのない島だが、インターネットサイトで見る島の景観、特にその海は驚くほど美しい。
 調べてみると、この島にはいろいろな歴史があることが分かった。
 イギリス観測船ビーグル号が南米の正確な経度を計測、確認するために1832年2月19日の真夜中、フェルナンド・デ・ノローニャ島に上陸した。その航海にチャールズ・ダーウィンが参加していた。
 ダーウィンはその時の島の印象を次のように称賛している。
 「島全体がひとつの森であり、木々の枝は幾重にも絡み合って、その中に這い入るのも難しい。風景はとても美しく、大きな木蓮の繊細な花に飾られた木々は、見るものの魂を捉えた」(筆者訳)。
 ダーウィンは、島での経験を日記に記録し、それは後に「ビーグル号の航海」として出版された。

同ノローニャ島のモーロ・ド・ピッコ海岸(By photo pantai (Flickr), via Wikimedia Commons)

 島の名前になっている「フェルナンド・デ・ノローニャ」は人名である。その人は、ブラジルを最初に植民地としたポルトガル王室の新世界貿易政策に深く関わって、この国の特産品「パウ・ブラジル」を国際商品とするための伐採・収集から、融資、販路の開発といった産業発展の重要な役割を担い、本格的なビジネス産業としての「パウ・ブラジル輸出入業」を発展させた最初の貿易商であり、今日で言うところの市場開拓者のような役割を担い、連合企業体のようなグループを統括していた。
 この島の名前は発見当時、「サンジョアン」であったが、1530年代のマルチン・アフォンソ・デ・ソーザの航海日誌にはすでに「フェルナンド・デ・ノローニャ島」と記されている。さらに、「ノローニャ」は元来ユダヤ貴族の「ロローニャ」家であるが、間違って広まり、それがそのまま通用し、今では公式名称になっているという。

▼ブラジル建国時の新キリスト教徒ユダヤ人移民

 ノローニャは、ユダヤ人の「コンベルソ」(新キリスト教徒=15世紀にスペインで起きた凄烈なユダヤ人迫害から逃れるためにキリスト教に改宗した人々のこと)であった。
 この頃の新キリスト教徒ユダヤ人は中東、北アフリカのアラブ諸国から難民として流入してきたスペイン系ユダヤ人で、「セファルディ系」と呼ばれ、経済的に割合豊かで、商人、各種の専門家、学者などが多かった。これに対し、戦後移民はロシア、ポーランドを中心とする東欧系ユダヤ人(アシュケナジーム)とその子孫で「アシュケナジー系」と呼ばれる。
 AHJB(Arquivo Historico Judaico Brasileiro)発行の「ユダヤ人のブラジル移民年表」によると、ユダヤ人はブラジル国発見時の1500年には、すでに探検隊とともに上陸していた。
 17世紀ごろにはスペイン、オランダ、ポルトガルから続々と移住し、レシーフェを中心にペルナンブッコ州一帯のサトウキビ畑の大部分を所有、当時の大西洋砂糖貿易で世界最大規模の砂糖産業を創り出した。労働の人的資源の奴隷売買はユダヤ人商人が中心であった。
 彼等はレシーフェにスペインやオランダの共同体と親近性の強い共同体を再建した。南北アメリカで初の公的なシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)カハル・ズール・イスラエル(イスラエルの岩)が建設されたことにより宗教指導者の必要性が高まり、オランダ支配下にあった1642年には600人のユダヤ人がアムステルダムから二人のラビ(聖職者)を伴って移住した。
 一人はユダヤ人ラビで学者、詩人のアイザック・フォンセッカであった。フォンセッカは新大陸で初のユダヤ教礼拝を奉修し、初の賛美歌を作詞、ヘブライ語からスペイン語へのカバラ(ユダヤ神秘思想)の翻訳、多数の著書を残しブラジル・ポルトガル語、文学、音楽など、ブラジルの文化形成に多大な影響を与えた人物と伝えられている。
 現存する資料や書籍を広げると膨大な話になるのでここでは割愛するが、新キリスト教ユダヤ人が、ブラジル建国時にポルトガル王室の政策に深く関わっていたことは歴然とした事実である。
 しかし1581年以降、ポルトガルやスペインの異端審問所は隠然として勢力を保持しレシーフェの共同体を厳しい監視下に置いていた。17世紀半ば、ブラジルから再びユダヤ人の移動が始まった。その中に、北米・ニューヨークに渡りアメリカン・ジューの創始集団となった23家族がいた。

▼ポルトガルの3人の王

 ポルトガル共和国は日本の4分の1ほどの国土面積で、イベリア半島のスペイン国に隣り合わせ、大西洋に面した小国である。
 人口は1065万人(2015年)で東京都の人口、1370万(2017年)にも及ばない。国教は圧倒的多数のカトリック教である。
 この小国が1500年代に世界初のアジア航路を開き、航路に沿った国々を次々と植民地化して海洋帝国となった。
 この国の独立までの歴史を語るには相当な説明が必要になるが、要するに、10世紀ごろ、イベリア半島中央部にカスティーリャ王国があった。後のスペインである。
 ちなみに「城」を意味する王国名のポルトガル語発音「カステーラ」は、借用語となって日本語のカステラというスポンジ・ケーキ菓子になったということはよく知られている。
 この王国は当時、強大なイスラム勢力下にあり、その勢力を駆逐してキリスト教国家を完成させる戦いを、実に700年続けたのであった。それをレコンキスタ(718―1492年までに行われた国土回復運動)という。
 この間の混沌とした勢力争いの中で、ポルトガルは1143年に分離独立する。
 そして、アヴィス王朝の時代に史上初めてアジアまでの未知の海路を開拓し「大航海時代」を実現する。日本では室町時代から戦国時代に当たる。1543年、種子島に鉄砲が伝来し、南蛮貿易が始まり、1639年江戸幕府によるポルトガル船の入港禁止までの約百年間、日本は宗教的、文化的にも大きな影響を受けたのであった。
 そのアヴィス王朝には3人の優れた王がいた。アヴィス王朝の創始者となった「ジョアン一世」はいわゆる妾の子供で直系の王位継承権はなかったが、文武両道に長けた有能さによって王になり、1385年に絶対王政を確立。海外進出を国家的な事業として推進する基礎を築いた。

エンリケ航海王子(Nuno Gonçalves, via Wikimedia Commons)

 ジョアン一世の第三王子エンリケ(1394―1460)は「航海王子」と称されるが、一説によるとたいへんな船酔いの持病があり、一度も航海に参加したことはなかった。
 しかし、人材調達能力に優れ、彼によって海上進出が本格化した。1940年、リスボン国際博覧会の記念碑として建てられた「発見のモニュメント」の先頭に立つのはこのエンリケ航海王子の像である。
 そして続くマヌエル一世(1495―1521)の治世下の1498年に、ヴァスコ・ダ・ガマ率いる船隊が喜望峰を超えてアフリカ東岸沿いに進み、東洋と西洋を結ぶインド航路発見を達成した。これはヨーロッパの商業発展に大きな貢献をもたらし、ポルトガル海洋帝国の基礎が築かれる偉業となったのである。
 ブラジル発見後、マヌエル一世は、1501年、1503年、1505年と3回にわたり、発見されたブラジルに植民地としての価値を調査する艦隊を送った。
 第2回インド遠征隊の艦隊13隻には、兵士、乗組員、数名の医師、聖職者を含めた1500人が乗り込んでいたといわれるが、その中には新キリスト教徒ユダヤ人ガスパル・ダ・ガマがいた。航海術の専門家、通訳、参事官、インディオとの通訳を担当したというこの人物は、おそらくユダヤ人としてブラジルの大地に最初の一歩を踏んだ人物であると伝えられている。
 バスコ・ダ・ガマは、この人物の優秀さに敬服し、自分の苗字を与えて命名したという。インド洋航海には相当数の新キリスト教徒ユダヤ人がそれぞれの分野の専門家として搭乗していたという記録がある。

▼国王とノローニャの開発権利契約

パウ・ブラジルの花(By Monocromatico at pt.wikipedia, from Wikimedia Commons)

 ブラジル調査隊のメンバーにイタリア・フィレンチェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチ(彼の名が「アメリカ」の語源となった)がいた。彼は、先遣隊に同行し詳細な記録を王室に報告していたが、その中で、ブラジルには「染料のパウ・ブラジルぐらいしか産物がない」と報告し、マヌエル一世を失望させた。
 しかし、当時ヨーロッパでは毛織物工業が盛んで染料の需要は高まっていた。
 しかし、様々な理由から王室の財政が苦しかったため、通商活動は本来、王室独占性が摂られていたが、マニュエル国王はポルトガル、フランス、ドイツなどの商人と年間契約を締結し、1503年10月6日、それぞれが合意して署名した。その中の一人がフェルナンド・デ・ノローニャであった。その契約内容は次のとおりである。
(1)毎年サンタ・クルス(ブラジル)に6隻の船を送る。
(2)海岸沿いに300レグア(1レグア=約4キロ、イギリスの単位、リーグと同義語)の内陸部地域の探検と開発を進めること。
(3)要塞を築き、それを3年間自費で維持する。
(4)契約期間に毎年2万キンタル(約1200トン)を輸入する。
(5)それをスペインとイタリアに採取時の5倍の値段で売却する。またポルトガル王室は東洋からの染料の輸入を禁止するかわりに、2年目にはブラジルからの総輸入額の6分の1、3年目には4分の1を受け取るものとする。
    ◎
 国王はフェルナンド・デ・ノローニャに1502年から3年契約で開発権利を譲渡した。ノローニャは国王との契約内容に従い、毎年6隻の船でパウ・ブラジルの伐採・輸送を開始し、1505年には契約を更新し、実質1516年までブラジル貿易を独占した。
 彼らが着岸し、ヴェスプッチが書簡に記録した群島は国王から土地の所有が認められ、ノローニャはこの群島に原住民のインディオを働かせ、ブラジル原木を伐採・移送、保管する倉庫数十棟作り、他の探検家や商人とともに連合企業体形式で運営・管理した。
 彼らは当時の経済活動のパイオニアであった。その後、開発権利が国王に戻されてからも、ノローニャとその子孫は個人企業としてのブラジル木輸出業を継続し大きな富を得たのである。
 契約書の文言とは異なり、1500年から1532年までの期間は、年平均でわずか300トンのパウ・ブラジルがポルトガルに送られたに過ぎない。だが、1570年頃のピーク時には、フランス人による無断伐採とブラジル沿岸地域での海賊行為が頻発した。
 ポルトガルは護衛を置いて守ろうとしたが、そのせめぎ合いの中で、ブラジルの歴史は、東北部一帯に原生していたパウ・ブラジルをヨーロッパ人が根こそぎ伐採することから始まったのである。
 かつて「パウ・ブラジルの地」と呼ばれたこの国で、今、この木は絶滅の危機に瀕し、リオ・デ・ジャネイロ以北の海岸山脈に自生している程度である。環境省はこの木を絶滅危惧種として登録し保護しているが、繁殖は非常に難しいという。
 全体が小さな棘状突起に覆われた大木で、黄金色の花が満開となるのに半世紀を待たねばならない。パウ・ブラジルに類似した9種の中から本物を識別する条件の一つに「棘のあるサヤ」があるが、その種子が弾け発芽することさえ希少なことといわれる。
 しかし、人間の凄まじい欲望は、わずか2世紀ほどの間に、東北部(9つの州で構成された)一帯のパウ・ブラジル原生林を根絶やしにしてしまったのである。

【参考文献】『Os Judeus no Brasil Colonial』『Arnold Wiznnitzer』(Pioneira, 1960)
【取材協力】
◎Alberto Milkewitz-Diretor Institucional
◎Federacao Israelita do Estado de Sao Paulo
◎Lucia Chermont -Coordendadora de atendiment e pesquisa
◎AHJB(Arquivo Historico Judaico Brasileiro)

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