【特集】その気骨、今の世相に何語る 城山三郎、没後10年

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城山三郎
父を語る次女の井上紀子

 作品とその生きざまに、あらためてスポットを当てたい作家がいる。城山三郎。10年前に79歳で逝った。中高年に熱烈な読者がいる。サムライのような潔さ、凜とした生き方を貫いた人物ストーリーに魅せられるからだ。

 「官僚たちの夏」「落日燃ゆ」「男子の本懐」「指揮官たちの特攻」…。激動の時代、組織の中で逃げずに立ち向かったリーダーの姿を描いてきた。晩年は言論の自由を封殺するとして「個人情報保護法」に反対を唱え、自らの戦争体験を振り返って社会の“変貌”に警鐘を鳴らそうとした。

 城山がもし生きていたら、今の世相にどれほど憤ってペンを握りしめたことか。親交のあった方、ご家族に話を聞いた。(共同通信=柴田友明、敬称略)

 ▽「鬼気迫る」

 「法案が通ったら『言論の死』の碑を建てて賛成した議員全員の名を記す」。2002年5月、国会で審議入りした個人情報保護法(案)に反対して城山は記者会見した際、こんな言葉で怒りをあらわにした。戦前の治安維持法に例えて「表現の自由が奪われる。取り返しがつかないことになる」と訴えた。城山はぼけていると自民党議員からやゆされて「腹が立つことが多くてぼけているひまなんかない」と毅然と言い返した。

 当時の城山の様子を振り返って、評論家の佐高信は「鬼気迫る奮闘ぶりにハラハラしていた」と語る。首相の小泉純一郎に直談判の後、役人たちが法案の説明をしようとした際、その1人が「国民に網をかける」とうっかり本音を漏らした。城山は怒髪天をつく形相になった。

 問題はその後だ。佐高によると、城山が住む神奈川の税務署から預金通帳を持って出頭するよう本人に通知があったという。しかし、唐突な税務調査という権力側の「どう喝」に、志の高い作家がひるむはずがなかった。

 10年前、都内で開かれた城山のお別れの会。佐高は弔辞で「国家の大義を信じて17歳で海軍に志願し、すぐにそれに裏切られて、以来、自分の時計は止まっているんだと城山さんは言っていましたが、それだけではなかった…その穏和な風貌から、あくまでも優しい人のように見られているかもしれませんが、内部に熱いマグマを抱えている人でした」と述べている。

 城山が危惧した個人情報保護法は拡大解釈され、公権力が本来明らかにすべき情報が伏せられる負の側面、社会の萎縮効果を招いた。その後、特定秘密保護法、安保関連法に続き、15日には「共謀罪」法が成立。そして9条をめぐる改憲論議。「城山さんが今の世相を見たら、憤死、悶死したかもしれない」(佐高信)。

 ▽なぜ今、城山三郎か?

 言論や表現の自由の危機を察知して、城山が声を上げ始めてから15年。メディアの萎縮、迎合も指摘される今の時代を考えると、城山の「予感」はある意味、的中したかもしれない。

 「国民国家のことなど考えず、私利私欲だけから生まれたもので、まさに卑にして卑なるもの。禍根は後世に永く残って取り返しのつかぬことになる。これに賛成する議員があれば、卑にして卑なる政治屋」。自身が作品で描こうとしたものとは正反対の政治家の“おごり”が、戦後日本の姿を変えていく。城山は憤怒の思いで書いている。

 01年、城山は最後の長編小説「指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく」を書き終えた。主人公は海軍兵学校同期の2人。最初と最後の神風特攻隊の指揮官、関行男と中津留達雄の両大尉だった。

 澤地久枝の解説に詳しいが、「遺族の戦後」を聞き取り、膨大な文献資料を調べ上げ、2人の「むごい運命」を描いた。その後、すぐに取り組んだのが、前の年に亡くなった妻容子の追想記だった。城山の当時のメモには「最優先の仕事とする。僕にとっては最高の伴侶で…その像をきちんと残しておかないと、ぼくも浮かばれない」という書き込みがある。その追想記「そうか、もう君はいないのか」は城山が亡くなった翌年08年に刊行された。

 飽くなき探求心で取材を尽くし、平易な表現に心砕く。人物ストーリーで読者を魅了するのは、その生き方に城山自身が深く共感しているからだ。根底に17歳で海軍の特攻隊員となった戦争体験がある。ユーモアを交えながら、愛妻への思いを純粋に書き連ねる家庭人であることも読者をほっとさせる。城山の素顔、その魅力の湧き口が何か。それをもっと知りたくなって、ご家族にインタビューした。

 ▽家族の視点

 城山の次女、井上紀子に聞いた。

 ―今、「共謀罪」法案が国会審議でされています。言論、表現の自由への危惧から、城山さんが15年前に個人情報保護法に反対した姿を思い出します。ご家族としてどのように見ていましたか。

 「2001年9月の米国の同時テロの頃から、父には懸念がありました。国家が個人を縛り付けるような(時代の)気配を感じ取り、それを断固阻止するため余生を注ごうとしていました。気が付いたときにはもう遅いことを自らの戦争体験で知っていたからです。今までの父とは違うと感じていました。もし父が生きていたら、(今の状況に)それこそ心穏やかに過ごしてはいなかったのではないでしょうか」。

 ―お父さんは晩年、一番何を伝えたかったのですか。

 「作家になる原点は戦争体験でしたから、やはりそこだと思います。今の若い人に伝えるのはなかなか難しいですが、戦争体験からそういった時代を繰り返してはならないことを本来伝えたかったと思います」。

 ―作品は読みやすく、その人物ストーリーに多くの方が影響されたと思います。

 「そういう風に言ってくださって、こちらが逆に励まされます。田中正造を取り上げた本(「辛酸―田中正造と足尾鉱毒事件」)を読んで『弁護士になりました』という人もいました。『官僚たちの夏』を読んで将来の道を決めたという話も。(父が)伝えたい人間ドラマがあって、それを熱心に読んでいただいて、本当にありがたいことです」。

 ―どういう人物に特に関心があったのですか。

 「表舞台、光が当たる場所だけでなく、大義と自分の志の間でもがく人々に視点を置いていました。苦悩しながら自分の信念を貫いていった人たちへの共感。表街道というより、本当に組織の中で埋もれながらも、ひたむきに生きている人が好きでした」。

 ―お父さん、ご自身は文壇とは一線を画していましたね。

 「人付き合いは得意な方ではありませんでした。ただ、その人のバックボーン、芯のところで魅力を感じると、さらに深く知りたいと好奇心旺盛でした。相手の方の立場や肩書、職種など人への垣根はまったくなく、自らも無所属を貫いて生きていました」。

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