【金属芸術家と匠に聞く】〈金属の魅力と可能性㊥〉《玉鋼製造(たたら吹き)の国選定保存技術保持者・木原 明村下(むらげ)》「誠実は美鋼を生む」信条に

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 日本古来の製鉄方法として、たたら製鉄が唯一存続している島根県・奥出雲町の日本美術刀剣保存協会「日刀保たたら」。2回目はたたら操業の技術責任者である木原明村下(むらげ)に話を聞いた。(伊藤 健)

――この地に伝わるたたら製鉄とは。

玉鋼製造(たたら吹き)の国選定保存技術保持者・木原明村下(むらげ)

 「たたらの始まりは6世紀後半ごろとされる。この地(奥出雲)では良質な砂鉄と豊富な森林資源に恵まれたため、室町時代から江戸時代にかけて、田部家と櫻井家、絲原家の三大鉄師が製鉄業を始めて盛んとなった。鉄師は今で言うところの鉄鋼メーカーにあたる」

 「その後、17世紀の後半頃から『高殿(たかどの)』と呼ばれる建物の中で操業するようになり、高殿を中心に、たたらで作った鉄塊・けら(けら)を割る施設などが集まり、砂鉄の採取技術や木炭の製造など、関連する事業が企業的にたたら経営として発展していった」

 「たたらで生み出された鉄は日本の文化、文明の発展のために多大に貢献を果たすとともに、砂鉄や木炭、土(炉用)などの原料を確保するために、大自然を相手にした一つの産業でもあった。この地のたたらの評価が高いのは、製鉄用に砂鉄を採取して切り開いた山々を棚田の水田として農業への再利用や、木炭用の森林も伐採後は植林をするなどし、『循環型産業』として自然と共生してきた点だ」

――明治時代に西洋から近代製鉄が日本に入ってきました。

 「近代製鉄法で大量に鉄が造れるようになり、これまで国内の鉄の供給を支えてきたたたらは、大正時代までにすべて廃業することとなった。しかし今につながる重要な出来事として、明治32年に雲伯鉄鋼合資会社(現・日立金属安来工場)の設立がある」

 「『たたらの鉄(和鉄)は、(近代製鉄法で作られた)洋鉄とは性質が異なる』と先見の目を持った5人の先達らによって設立された会社は、大正7年に鳥上分工場が設立され、たたら製鉄を近代化した角型溶鉱炉を開発、純度の高い木炭銑を生産していた」

 「昭和に入ってからは、軍刀として日本刀、玉鋼の需要が増加し、昭和8年に『靖国たたら』を復活させることとなったが、終戦と同時にたたらの火も消えた。明治以降、これまでにたたらの火は2回途絶えている」

 「終戦後、操業を止めたたたら製鉄だが、玉鋼がなくなったことで全国の刀匠たちが日本刀を作れなくなり、日本刀の匠の技術が継承できない事態に陥った。昭和48年に『新作刀を護る会』が結成され、たたら製鉄の再開に向けて日立金属に技術的な支援を要請。そして幸いだったのは、たたら操業の技術責任者である村下がこの地には安部由蔵氏と久村歓治氏の2人がご存命していた。また2人とも靖国たたらの経験者でもあった」

――これまでの経歴、村下になったきっかけは。

 「昭和29年に、当時の日立製作所・安来工場に入社した。配属は冶金研究所で木炭銑や砂鉄精錬を研究していた。その後、新型の角型溶鉱炉へ配属となり木炭銑の製造に携わり、還元鉄の新しい精錬方法や砂鉄の採取方法などの研究も行っていた」

 「そして昭和52年、『日刀保たたら』の再開が決まった。安部村下と久村村下の指導の下、たたら製鉄を引き継ぐ後継者を育成するため、当時、木炭銑を製造していた日立金属の角型溶鉱炉の経験者から後継者候補を選ぶこととなった。私も経験者だったこともあり、白羽の矢が立った。しかし日刀保たたらが再開してわずか2年後、久村村下が亡くなられた。その翌年、安部村下から指名を受けて、村下として第一歩を歩み始めた」

 「安部村下の教えとして、自分から積極的、意欲的に学びとる姿勢、たたらの仕事を好きになること、そして、親方(上司)に可愛がられる人間になること、この3つを今でも覚えている。誠心誠意をもって仕事をやることで親方との信頼関係が生まれ、技能や技術も覚えることができる」

 「この心得は、たたら製鉄の存続に尽力された安来製鋼所(現安来工場)の社長だった工藤治人氏が残した言葉、『誠實生美鋼(誠実は美鋼を生む)』に象徴されている。技術や設備も重要だが、それ以上に誠実さ、誠心誠意をもって仕事に取り組むことこそが、良い鋼、美鋼を作ることができると、今でも信条にしている」

頼りは技術、経験と五感/鉄の美、日本刀に象徴

――実際のたたら操業とは。

 「一回の操業は一代(ひとよ)と呼ばれ、三昼夜(約70時間)続けてたたら吹きを行う。一代は1~2月にかけて今は年3回行っている」

 「炉の大きさは、高さ約150センチ、幅約90センチ、横幅が3メートル弱。側面の下部に『ホド』と呼ばれる送風口を13センチ間隔で片側20個、両側で40個開けて送風管の木呂管を設置する。砂鉄を投入すると、約3分の2が十分に加熱され、還元、溶融して炉の下部で鋼に製鋼される。残りの3分の1は十分に還元させず、炉の内壁の土と反応し、融点の低い鋼滓となり、不純物を含んで、ノロとなり炉外に流れ出る」

 「操業当初は約15センチ程度だったけらが、約30分おきの砂鉄の投入により一時間に数ミリずつ広がり、三昼夜で1・2メートルほどに生長していく。けらの生長とともに炉壁も侵食され、けらは形状を変えながら玉鋼を精製していく」

――近代製鉄の鉄づくりとの違いは。

 「近代製鉄は定型で一般的な鋼を作るが、たたらは〝不定形で鋼を造っていく製鉄法〟と言える。複雑な製鋼反応が炉内で生じており、まだ科学では完全に解明されていない。たたら吹きの安定操業を保つには、やはり村下の技術と経験、五感による感覚にゆだねられている」

 「火の色の変化や炎の吹き上がり方。砂鉄を投入する前にはホドから炉内を観察して砂鉄の溶解状況も確認する。けらは常に変化しているため、炉内の反応現象を三昼夜にわたって把握しながら、砂鉄の投入や送風量の加減など、繊細精妙な調整や工夫、高度な技術を先代の村下たちが1千年以上も前から作り上げて、今に至るまで伝え続けてきた」

――たたらで生み出された玉鋼、鉄の魅力を改めて。

 「鉄の魅力、美しさは日本刀に象徴されている。美しい日本刀の刃文は、鋼が完全に溶けておらず、炭素にバラつきがある玉鋼の特長を生かした組織の変化といえる。この日本刀はたたらによって生み出された玉鋼でしか作れない。たたら製鉄で作った鉄であるからこそ美しさが際立ち、均質な鋼、近代製鉄では生み出せない美がそこにはある」

〝たたら〟技術継承脈々と

 現在年3回行われるたたら操業には、木原村下と同じく国選定保存技術保持者で先代安部村下の娘婿である渡部勝彦村下=写真=の2名と、村下後継者で刀匠の三上孝徳村下代行、堀尾薫村下代行、このほかにも養成員(上級、中級、初級)らが三昼夜にわたって、たたらの火を灯し続けている。

 日刀保たたらの再開当時は年7~9回ほどの操業があったとされるが、今は年3回と限られた回数の中で、三上村下代行と堀尾村下代行、上級養成員らは、実際に砂鉄を投入する鋤取り、鋤裁きに従事し、誠心誠意、一生懸命に技術を継承しようと意識は高い。

 「100回ほど操業しているが、一度として満足のいく玉鋼を作り出すことはできない。また一度として同じ操業、玉鋼はない」(渡部村下)とされるたたら製鉄。1300年以上も伝えられてきた、たたらの火の継承が着実に行われている。