人形町の女:“産まない”選択は、未だ理解されづらい。深まるばかりの既婚女との溝

結婚して家を買い、そして子どもを授かる。

今まで「幸せ」だと信じて疑わなかったもの。

しかしそれを信じて突き進んでいくことが、果たして幸せなのだろうか?

外資系化粧品会社でPRとして働く祐実、29歳。

結婚生活3年目、夫の浮気が発覚したのをきっかけに、話し合いを経てついに離婚を決意した。

今日は、かつて住んでいた豊洲の家に、荷物を取りに行く予定があった。

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―私たち、もう別れましょう。

純との話し合いから、1週間が過ぎた。両親への報告や豊洲のマンションにある荷物の整理など、やらなくてはいけないことは山のようにある。

特に純の父親は大手新聞社の役員で、真面目で古風なタイプだ。姑である紀子からも「離婚は、考え直して欲しい」と再三言われていた。

結婚して以来、紀子との関係は良好だった。自分の母親とは違い、多忙な夫を献身的に支える彼女のことを、祐実は心から尊敬していた。純の家は男ばかり3人兄弟だったので、まるで自分の娘のように可愛がってくれていたのだ。

「もしもし、祐実さん?今大丈夫かしら」

この日も出掛ける間際、紀子から電話があった。

「本当に、申し訳なかったわ……。純には厳しく言っておいたから」

紀子は息子の不貞を、心から詫びてくれた。そして、こう言うのだった。

「祐実さんのことは実の娘のように思っていたから、あなたたちが別れるのは、悲しいわ」

その言葉に、祐実は何と言っていいか分からなくなってしまった。離婚というのは、ただ単に一人の男を失うのではない。一人の男を通じて得た、「家族」もまた失うのだ。

「私もです」

そう同意した言葉に決して嘘はなかったが、「離婚」という結論に至ったのは、他人には理解しがたい数々の理由があるのだ。それをうまく説明できなそうにはない。

「すみません、そろそろ外出するので」

後ろ髪を引かれる思いだったが、電話を切った。今日は、大学時代のサークル仲間の結婚を祝う予定があった。

結婚祝いの席で、女友達からの要らぬプレッシャー。

「乾杯!」

この日は、所属していたテニスサークルで一番の遊び人だった直哉の結婚祝いだった。表参道にある『CICADA』のテラス席で、皆で乾杯した。

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「とうとう、直哉も年貢の納め時かぁ」

すでに一児の母である加奈子がニコニコしながら、そう言った。加奈子は友人の結婚話にひどく敏感で、今日も「お祝いしよう」と皆を呼び出した。

男女合わせて7人グループのこの集まりのうち、女性は祐実と加奈子、それに沙希の3人だ。今日、3人の中で唯一独身である沙希の姿はなかった。男性陣もほとんど結婚しているし、何となく独身者は来づらい雰囲気なのかもしれない。

「沙希は何で来ないの?」

加奈子が、口をとがらせながら言った。

「土曜日だし、今日はデートじゃない」

祐実が言うと、加奈子は非難めいた口調でこう言った。

「あの子、まだ結婚しないつもりかしら?」

加奈子は昔、こんなことを言う女ではなかった。そして矛先は、祐実にも向けられる。

「祐実は最近どうなの?子ども、そろそろじゃない?」

離婚間際だということを、加奈子には言っていなかった。結婚のお祝いで集まっている今日はその話をできないし、言ったところで加奈子の口調がさらに強まるだけだろう。

「そうねぇ」

祐実はそう濁したが、加奈子は糾弾の手を緩めなかった。

「早い方がいいわよ、子どもは」

最近、会うたびにこの会話を繰り返している。そしてこの話になるたびに、心にざらりとした感触が残る。離婚について、いつかは報告しなければいけないが、話が全てまとまってからにしようと心に決めた。

「それは、大変な飲み会でしたね」

翌日、『うな富』で、祐実は寛と向かい合っていた。

最近、寛とは何かと連絡を取り合っていた。家が近いし、別居中という境遇も似ている。それにお互いまだ離婚が成立していないので、男女の関係に発展する気配もなく、気軽な友人として付き合える感じが良い。

この店のうな重は寛の大好物らしい。手馴れた様子でビールと肝焼き、うな重を二つ頼んでくれた。人形町には肩肘張らず行けるお店が多く、かつ味に外れがない。今日のこの『うな富』の約束も、祐実は心待ちにしていた。

寛が指摘する、加奈子の深層心理とは?

「子どもを作れっていう彼女、優秀な方なんじゃないですか?」

寛は運ばれてきたビールを一口飲み、そう聞いてきた。

「えぇ。そうでうね、外資系の会社で働いていて。子供もいて仕事も順調そうだし、とても幸せそうなんですけどね」

祐実の返答に、寛は言葉を慎重に選びながらこう言った。

「東京でキャリアを積みながら子育てするって、大変でしょう。自分では消化しきれない旦那や社会への不満を、そう言って晴らしてるんじゃないかな」

たしかに、加奈子はいつでも頑張り屋で、何事にも手を抜かない性分だ。

「僕の推測ですけどね。こんなに大変だけど自分は幸せだって確認したいから、人にもそれを強いるんじゃないかな」
「寛さんは、女心がよく分かりますね」

祐実がそう言うと、寛は苦笑した。

「女心が分かっていたら、別居なんてしませんよ。職場が女性だらけなんで、普段から愚痴を聞かされることが多いんです」

寛は大手損害保険会社勤務で、職場には一般職の女性が多いらしい。

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「昔は結婚したら辞める女性が多かったんですけど、今は皆当たり前のように続けるでしょう。それを見てるとね、やっぱり大変だなと思いますよ」

「……寛さん、お子さんは?」

祐実はずっと気になっていたことを聞いてみた。

「いや、うちはいませんよ」
「そうなんですね。実は私、子供が欲しいか分からなくて。だから余計に、その子の発言に対して疑問を持ってしまうのかもしれません」

祐実は思わず、本音をこぼした。

すると、寛は神妙な面持ちになった。

「……そうなんですね」

そこからの会話はあまり弾まず、お互い黙々と食べ続けた。店を出ると寛は「では」とだけ言い、そそくさと行ってしまった。

―まずいこと、言っちゃったかしら。

もやもやした気持ちのまま家に帰ると、純からLINEが届いていた。

―荷物の整理、来週の土曜日はどう?

一緒に住んでいた豊洲のマンションにある荷物を整理して、離婚届にサインしに行く予定を調整していたのだ。

―OK。何時がいい?
―13時くらいかな。

できれば顔を合わせたくないが、そういう訳にもいかないだろう。

純との連絡を終え、祐実は寛に今日のお礼LINEを送る。しかしそのメッセージは、なかなか既読にならなかった。

▶NEXT:7月24日 月曜更新予定
寛はなぜ黙ってしまったのか?そして、ついに夫婦最後の夜を迎える…!

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