【黄金世代】第3回・小笠原満男「美しき東北人魂~これが俺の生きる道」(♯6)

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 小笠原満男とは、いったいどんなフットボーラーなのか。

 本人にそのまま訊いてみたのだが……。
 
「なんだろ。サッカーが好きで、ただ勝ちたくてやってて、でも不器用で……。いやいや、上手く説明できないな。あんまり考えたことないから」
 
 と、やや難易度が高かったようだ。では、これまでのキャリアでサッカーに対する価値観はどのように変わってきたか。それなら大丈夫だろう。
 
「えっとね、若い頃は点取りたい、アシストしたいだったのが、いまはとにかく勝つためのプレーってのを一番に考えるようになった。やりたいプレーをやるんじゃなくて、チームに必要なプレーだよね。それって時間帯や試合の状況によって違うし、対戦相手によっても変わってくる。そこのところを深く考えられるようになった。
 
 だから、狙った通りの試合運びをできたときとかは、喜びを感じるよね。チームに必要なプレーって、ときに守備だったり、ファウルして止めるだったりもあると思う。基本、いまはそこしか考えてないかな」
 
 初めてミツオに会ったのは、彼が高2の時だった。表情はいつもニコヤカだが、基本的に黙して多くを語らずで、とてもシャイな若者だった。
 
 それがいつから変わったのだろう。いま現在の凄みが半端ない。鹿島アントラーズでは闘将のイメージが定着しているし、その言動には、常に強いメッセージが込められている。
 
「やっぱり俺は岩手、東北の人間だから、黙々と淡々としていたい。いまだってそのまま行けるならずっとそうしていたいけど、立場が変わっていく中で、発しなければいけない必要性が出てきたりでね。やっぱり言葉で引っ張らなきゃいけない、若い選手たちに声を掛けなきゃいけないときってあるからさ。いつまでも淡々と黙々ではダメだったんだと思う。もともとはそのほうが性に合ってるんだけどね。楽だし。だから頑張って、演じてます(笑)」

【PHOTO】小笠原満男の華麗なるキャリアを厳選フォトで

 現在の小笠原を語るうえで欠かせないのが、「東北人魂」での活動だ。きっかけとなったのは言うまでもなく、2011年3月11日の東日本大震災だった。
 
「清水でJの試合があるんで、東京駅に向かう途中、高速道路のバスの中だった。寝てたから揺れは感じてないけど、気づいたらバスが路肩に停まってて、なにがあったんだろうって。テレビを付けてようやく状況を把握した。岩手の親とか知り合いとか連絡がつかなくて、鹿島も被災地だったから、すごく心配したよね」
 
 震災発生から1週間が経った頃だった。すでに親族の安否は確認できていたが、居ても立ってもいられず、現地に向かうことにした。新潟や秋田を周るルートであれば入れるという情報を掴んだからだ。小笠原が車を運転し、家族全員で一路東北へ。
 
「辿り着くまではなにもかもが普段と変わらない景色だったけど、津波が来たところからはもう一気に……。言葉では言い表せないくらいで、頭の中が真っ白になった。買ってきたものを身内や近所に配るくらいしかできなくてね。個人で届けるだけって、やっぱり限界があるなと感じた」
 
 鹿島に戻ってすぐに、あるサッカー関係者から、被災地でサッカーボールを蹴れなくなり、辞める子どもが増えていると聞かされた。スパイクもボールもユニホームも流され、経済的な余裕もなくなったからだ。「じゃあそういうのを届けてあげよう」と思い付いたのが、活動の始まりだった。
 
 東北出身のJリーガーに声を掛け、宮城出身の今野泰幸(ガンバ大阪)や秋田出身の熊林親吾(当時・ザスパ草津)らを発起人とし、「東北人魂を持つJリーガーの会」を発足させるのだ。
 
「熊林とか、『僕らは被災地じゃないけど手伝わせてください』と言ってくれて、じゃあちゃんとした連絡網を作って会でやろう、東北出身みんなでやろうって空気になって。東北人魂は、俺がチャリティーマッチのときにTシャツに書いた言葉。一発でメッセージを伝えたいって考えたときに、分かりやすいのがいいと、パッと思い浮かんだのがそれ。
 
 東北のひとにはお互いを助け合う優しさだったり、黙々と我慢しながらでも困難に耐えられる強さがある。その気持ちがあれば乗り越えられる。だからこその、『東北人魂』。東北のひとにはきっと伝わる、復興にもいいメッセージになると思った」
 
 会の活動も今年で7年目。やり続けることが大切だと感じている。
 
「まだまだだけど少しずつ復興はしてるし、発信し続けないと風化の速度は早まる。当初は物資を届ける、子どもたちとサッカーをするのがメインだったけど、これからは長年続いていく大会形式のイベントを定着させたい。もしその中から、未来のJリーガーが育ってくれたら嬉しいよね。
 
 ただ楽しかったで終わるんじゃなくて、震災があったから頑張れただったり、触れ合ったプロの選手たちに刺激を受けて『僕もプロになりたい!』と思ってくれたり。そうなれば嬉しいし、すごく期待してますよ」
 
 小笠原の実息もサッカーをしている。「巧くなりたかったら努力しろ、やるなら最後までやれとは話した。俺が父親に言われたのと同じことだね」と、少し頬を緩ませながら、やりとりを明かしてくれた。
 

 さて、黄金世代のみんなに訊いて回っている酷な質問だ。
 
 現役を退く日がそう遠くない。鹿島の生ける伝説は、どんな終わり方をイメージしているのだろうか。
 
「すごい先ではないよね。どれだけ延ばせるかで、ノープランと言えばノープラン。何歳までやりたいと思ってても、いらないって言われたら終わりの世界だからね。行けるとこまで行きたいってのが本音かな。ボロボロになる前に、スパっとね。
 
 目標が達成されたとかじゃなく、もう次に託すときだって感じられたタイミングかもしれない。俺はこのチームが好きだから、ずっとここでプレーしていたい。でもいつかは次にバトンを渡す日が来ると思う。そのときが来たらスパッと辞めるかな。いまはなんとなくそう思う」
 
 最後に、雑談で飛び出したエピソードを紹介しよう。「どういうゴールが究極なの?」と尋ねたところ、かなり奇想天外な答が返ってきた。
 
「中学校くらいが俺のゴールの全盛期だった。スピード溢れるドリブラー時代ね。実は、ゴールに関してはいまでも変わらない美学がある。ゴールネットを揺らさずにゴールするのが究極の目標」
 
 は??
 
「なにそれ、でしょ? ドリブルでディフェンダーをかわして、キーパーもかわして、そのままドリブルでゴールラインも割って、また戻る! シュートを蹴り込むんじゃなくてね。これに優る究極のゴールはないでしょ。中学時代に何度かやって、すごく満足してた。え? 感じわるい?(笑)」
 
 これもまた、フットボーラー小笠原満男の真理なのだ。

 練習場のピッチで写真撮影を終え、別れ際にこう語りかけた。「次はJの試合をカシマまで観にきますから」と。すると社交辞令を見抜いたのか、言われ慣れているのか、小笠原はこう突き放した。
 
「俺はね、そういうのは信じないよ。だいたいみんな来ないから。口だけなんだよ」
 
 なんとも手厳しい。そして、鋭い。笑って別れたが、言われっぱなしも悔しい。
 
 困った。昔ならまだしも、いまのわたしはJの担当チームを持っているわけではないので、気軽に週末のJリーグ取材には赴けない。いや、待てよ。直近の平日にACLのホームゲームがあるじゃないか。しかも相手の広州恒大にはパウリーニョが! 彼は我が愛するトッテナム・ホットスパーの元選手で、訊きたいことが山ほどある。
 
 そして試合当日。ゲームが終わり、ミックスゾーンを素通りしてそそくさとバスに乗り込むパウリーニョを目撃し、「降りて来てくれ」とジェスチャーをしている間に、ミツオさんはすたこらと帰ってしまった。来ていたことを伝えようと曽ケ端準と中田浩二を必死に探したが見つからない。ベテラン記者とはとうてい思えない、豪快な空振りである。
 
 でも、また来ればいい。鹿島に来ればいい。
 
 小笠原満男はいつだって、ここにいるはずだから。
 
<了>
 
取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
 
※8月上旬にスタート予定のシリーズ第4回は、満を持して「浪速の怪童」が登場します。どうぞご期待ください!
 
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PROFILE
おがさわら・みつお/1979年4月5日生まれ、岩手県盛岡市出身。地元の太田東サッカー少年団で本格的にサッカーを始め、小6の時には主将としてチームを率い、全日本少年サッカー大会に出場。中学は市立大宮中、高校は大船渡に進学。インターハイや選手権など全国の舞台で活躍し、世代別の日本代表でも常連となり、東北のファンタジスタと謳われた。1998年、いくつかの選択肢から鹿島アントラーズに入団。翌年にはU-20日本代表の一員としてナイジェリアでのワールドユースに主軸として臨み、準優勝に貢献する。鹿島では在籍20年間(2006年8月から10か月間はイタリアのメッシーナにレンタル移籍)で7度のリーグ優勝を含む16個の国内タイトルをもたらし、Jリーグベストイレブンに6回選出、2009年にはJリーグMVPに輝いた。日本代表ではワールドカップに2度出場(2002年・06年)し、通算/55試合出場・7得点。Jリーグ通算/508試合・69得点。173㌢・72㌔。O型。データはすべて2017年7月16日現在。

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