追悼=神内良一さん死去=サンパウロ日伯援護協会の恩人=個人で最高、援助総額11億円=南米日系人を隠れて支援=移住者に寄り添った人情家

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神内氏の支援のおかげで拡張した「神内病棟」の威容

 戦後移民が最盛期を迎えた1959年、移住者受入援護の為に創設された日本移民援護協会。これを前身に「サンパウロ日伯援護協会」は創立し、以来その時々の社会的要請に応えながら、現在では福祉医療部門併せて12事業所を有し、安定した財政運営を行なう日系社会最大の団体へと成長した。だが、「日伯友好病院」が現在のように中核的事業として、援協の福祉活動全般を支えるまでに成長するようになるまでには、私財を投じて国際福祉事業に身を捧げた故・神内良一氏の隠れた、そして大きな功績があった。

若き日に伯国移住の夢

 先月27日にうっ血性心不全のため90歳で亡くなった神内氏の訃報を受け、サンパウロ日伯援護協会(与儀昭雄会長)は、与儀会長、井上健治第一副会長、菊地義治前会長、山下忠雄前副会長、尾西貞夫前副会長が出席の下、援協本部会議室にて7日、記者会見を行なった。これまでの多大な支援と貢献に対する謝意を滲ませ、神内氏の遺徳を偲んだ。
 89年に旧プロミス株式会社の会長職を退き、かねてから関心を寄せていた国際福祉事業を終生の仕事として身を捧げた神内氏。著書『私の国際福祉の原点―行い想いを越ゆることなし―』(2017年、公益財団法人日本国際協力財団)によれば、伯国移住者への支援のきっかけは、87年にふと目にした「故国へ里帰りした 訴えるブラジル移民」という朝日新聞の記事だった。
 50年に農林省を退職した折、実は伯国行きを思いつめたことがあったと同書には明かされている。「若き日のブラジルへの想いと消えぬ記憶は強く心にあり、地球の裏側で寂しく老いる日本人移民の存在を伝える新聞記事に激しく胸を突かれた」と著書のなかで開陳している。

友好病院を訪ねる神内さんを歓迎する故野村丈吾連邦議員、田中克之在サンパウロ総領事、橘富士雄南米銀行名誉会長、和井援協会長ら

 「運命が少し違っていれば、伯国へ渡っていたかもしれない。異国に生涯を捧げた同胞を少しでも慰めたい―」。そんな気持ちに突き動かされていた折、移民80周年で竹中正援協会長(当時)が来日していることを知り、その縁から日伯友好病院の視察を兼ねて初めて渡伯したのが88年の12月だった。
 当時、産声を上げて間もない同病院は、病床数は予定の半分の60床。4階の産婦人科、5階の小児科は未完成のままで、医療機器も明らかに不足していた。
 足を運んだサントス厚生ホームでは、苦難の人生を送ってきた先駆移民が精神異常を来たして亡くなっていく惨状を聞き、老朽化、手狭で満杯の現状を目の当たりに支援の必要性を痛感したという。
 菊地前会長によれば、初来伯時に移民史料館で上塚周平翁の短歌「夕ざれや木陰に泣いてコーヒーもぎ」に強く胸を打たれ、「移住者がこの国で生きてきてよかったと思えるようにしてあげたい」と意志を固めたと証言する。高齢者施設では、「入居者が合唱した『夕焼け小焼け』を聞いて、涙をぼろぼろこぼしていた」とも。故人の人柄が偲ばれるエピソードだ。
 帰国後の90年には、ハイパーインフレに巻き込まれ追加資金が必要となった日伯友好病院とサントス厚生ホームの整備のため、各々7550万円、3500万円の援助を決定した。これを機に同協会への支援が始まり、現在までの援助総額はなんと約11億円にも上るという。
 文句なしに個人としては過去最高の日系社会支援者だ。ブラジルだけみても援協以外にも支援しており、さらに南米諸国の日系団体にも多額の寄付をしてきた。南米においては間違いなく「大恩人」といえる人物だ。

記念植樹をする神内氏
神内氏の貢献を感謝するプレートの除幕式(左から2人目が神内氏)

友好病院増築に多額寄付=神内福祉基金のおかげで

1988年設立時の日伯友好病院

 山下元副会長は、「病院の創立初期には患者が来ず、職員が時間をもてあまして、外を走っている車を眺めていたこともあった」と思い出す。だが、神内氏の支援を受けて新たな医療機器が整備されてからは、たちどころに満床で長期待機を強いるまでになった。
 そこで持ち上がったのが、240床まで拡大する新病棟建設計画だった。建設案説明と支援を要請するため、93年に当時の原沢和夫会長、和井武一副会長らが訪日した時、神内氏はすぐさま4億5千万円を快く寄付したという。
 その後、02年には一億円の援助を受け、神内総合医療検査センターが建設された。「240床になり運営が楽になった。今日の経営基盤が整った」といい、09年には援協本部の新たな活動拠点となる援協福祉センター(リベルダーデ区ファグンデス街)が完成した。
 同センターの建設には、神内援協福祉基金の資金を使用。急迫老境の移民救済に尽力できるようにすることを目的として設立したものであったため、神内氏からは反対を受けたという。
 だが、援協は投じた資金を基金に返済し、「きちんと約束を果たしたこともあって、以降も協力が継続するようになった。きちんと資金を運用し報告することで、信頼を得られるようになった」と菊地前会長は語る。
 13年には〃最後の支援〃を受け、援協傘下の4つの高齢者福祉施設における拡張や改修工事などを「神内プロジェクト」として進め、今年3月に完了した。
 菊地前会長は、「間違いのない基盤を築いたことに対して、喜んでいらっしゃる様子で、報告のために日本に行った際は、非常によくやっているとお褒めの言葉も頂いた」と明かす。
 「神内さんの足跡をしっかりと引継ぎ、信頼される団体としてやっていく。それこそが一番の恩返しになる」と続け、与儀会長も「一度もお会いできなかったが、神内さんのお話を聞くたびに感激していた。創立の精神を守り、もっと良くなるように努力していきたい」と今後に意気込みを見せた。

 

サンパウロ日伯援護協会に対する資金援助

 1990年2月  日伯友好病院4、5階病棟整備と医療機器援助
 1990年6月  サントス厚生ホーム新築並びに什器備品購入資金援助
 1991年2月  援協神内医療福祉基金設立
 1992年4月  カンポス・サナトリオ新病棟建設費援助
 1994年6月  日伯友好病院「パビリオンR.JINNAI」建設資金全額援助
 2002年5月  日伯友好病院「神内総合医療検査センター」建設費援助
 2008年5月  援協社会福祉センター建設資金援助
 2013年11月 援協傘下の4つの高齢者施設の拡張・改修工事費援助

 

神内良一さん=プロミス創立者、半生を捧げた福祉事業

神内良一さん

 1926年8月15日、香川県生まれ。終戦後、農林省に入省するも、50年に退職。その後、戦争孤児救済を目的とした児童福祉施設「聖ヨハネ学園」で勤務。その経験から児童福祉には金が必要として、62年に前身となる関西金融会社を設立した。
 80年に「プロミス株式会社」に社名変更し、業界大手の企業へと成長させた。同社創立25周年の2年後、89年には旧プロミスの会長職を辞任し、かねてから関心を寄せていた福祉事業に転向した。
 中国残留婦人や孤児等の支援や南米日系社会の高齢移住者支援を目的として、89年には神内良一国際福祉事業所を開設。97年には、財団法人「日本国際協力財団」を設立した。
 以来、援協のみならず、アマゾニア日伯援護協会の病棟拡張などを支援し、伯国のみならず、コロンビア、パラグアイ、ペルー、コロンビア等の南米諸国においても、高齢となった日本人移住者のための医療福祉施設の建設などを幅広く支援してきた。

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