姿消す諫早大水害の「証人」

 1957年7月の諫早大水害から25日で60年を迎える。明治期に造られ、大水害の濁流に耐えた土蔵(諫早市栄町)がこの夏、姿を消す。高さ3メートル以上まで水が迫った「恐怖の一夜」を家主の男性(72)が振り返った。

 市中心部の栄町アーケードの北端にある井上呉服店の一角。土蔵は2階建て、1883(明治16)年の建築。白の漆喰(しっくい)の壁の下部にある格子形の装飾や2階の窓が特徴。第2次世界大戦中の建物疎開では頑丈な造りだったため、周囲で唯一、取り壊しを免れた。

 4代目の井上幹雄さん(72)が中学1年だった1957年7月25日、夕方から雨脚が激しくなり、家の近くを流れる水路から水がどんどんあふれてきた。井上さんら家族6人が暮らす2階建ての母屋まで水が迫った。隣のパチンコ店寮の女性約20人も井上さん宅に逃げ込んだ。2階につながる階段はあっという間に水没し、「あと5センチ、水が上がったら2階も漬かっていた」。

 水が引き、2階から下りてくると、家財道具も店の商品もすべて流されていた。通りに出ると、店の前の映画館「銀線」のスクリーンや壁も水圧で押し流され、後ろの建物がすっぽり見えた。

 「このあたりまで水が上がった。2階の畳がぬれ、泥が残っていた」。井上さんは土蔵を見上げ、2階の窓近くまで水が迫った「あの夜」の恐怖を語る。土蔵内側の漆喰は、大量の水を含んだためか、内側から膨らみ、何度かコンクリートで塗り替えた。

 同店を含む周辺地域は、店舗やマンションなどが入居する再開発整備事業が進む。8月にも解体工事に入り、2019年度にビル2棟が完成する。「水害の証人」である土蔵の一部保存や水位跡が分かる標柱設置を望む声もある。井上さんは「残念ながら現時点で具体的な話はない」と寂しげに語り、再開発ビルで呉服店を再開するという。

 市内では水害の痕跡をとどめる建物などを記録する動きが出ている。諫早市の市民グループ「本明川を語る会」(中野勝利会長)と国土交通省長崎河川国道事務所は昨年から2回、被害が大きかった天満町や中心部アーケード周辺の遺構めぐりを実施。当時を知る市民に状況を聞き、写真と併せた地域ごとの地図を作成。同事務所の山下亨専門官は「大水害の体験者が高齢となり、今が記録を残す大切な時期」とし、今後も調査を続ける予定としている。

© 株式会社長崎新聞社