「やらないと、こっちが殺されてた」/戦後72年、当時振り返る元兵士

 「米兵を殺した...」

 青森県平川市の高齢者施設で、工藤義隆さん(95)が声を振り絞った。

 「やらないと、こっちが殺されていた。恐ろしいことだ」

 太平洋戦争末期、フィリピンのジャングルを1人で数カ月さまよい、地獄の苦しみを味わった。「今、自分の体験を若い世代に伝えたい」

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 ジリジリと肌を焼き焦がすような日差しが注いでいた。1945(昭和20)年夏、工藤さんは日本から3千キロ離れたフィリピン・ルソン島にいた。飢えと孤独にさいなまれ、いつも故郷のことを考えていた。「ああ、青森に帰りたい」

 黒石市出身の工藤さんは、41(同16)年、第八師団歩兵部隊に入隊した。中国・旧満州で約3年間、訓練を受けた後、フィリピンへ送り込まれた。米軍との対戦中、隊から独りはぐれ、孤独な彷徨(ほうこう)を続けていた。

 はだしで歩くうちに、足の皮が厚くなって痛みは感じなくなっていた。ヤドカリ、カタツムリ、草、ヘビ...食べられる物は何でも食べた。

 ある日、芋の葉の陰に誰かが立っているのが見えた。銃を持ったまま息絶えた日本兵だった。体は腐り軍服から白い骨がのぞき、ウジ虫がはっていた。

 近くにヤドカリのような虫もいたが、食べる気にはなれなかった。「自分がこのまま死ぬのは悲しい。絶対に生き残ろう」。死臭が漂うその場を後にした。

 勝つのか、負けるのか。先が見えない暗闇に苦しみながら歩いていた時だった。

 山里で米兵2人と遭遇した。拳銃には自決用に残していた弾が1発。とっさに1人を撃った。相手はつんのめって倒れた。

 もう1人の米兵とは取っ組み合いになった。寝技で絞め、顎や脇腹を何度も殴打した。拳銃のひもで首を絞め上げても、相手の抵抗はおさまらない。拳銃の柄で頭を殴ると、鮮血が噴き上がった。「助けてくれ」。そううめくと米兵は動かなくなった。

 直後に、後方から米兵が銃を撃ちながら走り寄ってきた。工藤さんは近くの川に飛び込んだ。身を潜め逃げ通した。

 45年10月、投降を呼び掛けるビラが、空からまかれた。マッカーサー元帥と昭和天皇が一緒に写った写真を見て、既に戦争が終わっていたことを知った。

 トラックの荷台に載せられ、捕虜収容所へ向かう途中、現地のフィリピン人から「ドロボー」「バカヤロー」と罵倒された。石や汚物も投げられた。

 その年の12月、黒石に帰郷することができた。

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 今でも戦地の悪夢がよみがえる。恐ろしさのあまり、震え上がったり、夜、夢を見て汗をかいたりすることがある。

 工藤さんがフィリピンへ船で向かう途中、台湾南方のバシー海峡で、日本の輸送船が米軍に攻撃され、多くの日本兵が命を落とした。船に魚雷が接近してくる光景が目に焼き付いている。

 フィリピン上陸直後、移動中に現地のゲリラ部隊から一斉射撃を受けた。トラックの荷台は仲間の血で真っ赤に染まった。

 何の肉かも分からない酸っぱい味がする肉を食べさせられたこともある。漂う死臭、人肉に吸い付くウジ虫...72年前の残像は今も迫ってくる。

 施設で静かに暮らす工藤さんは、時間を見つけては、仲間の冥福を祈り、手を合わせる。

 「戦争は、ただ人を殺す残酷な行為。この愚かな行為を忘れてはならない。絶対に繰り返してはならない」

 訴えが、次代へ引き継がれることを願っている。

 ◇ 

 戦後72年。「あの日」の記憶に向き合う。

フィリピン戦

 太平洋戦争開戦後、日本軍は1942(昭和17)年にマニラを占領。フィリピン全域を統治下に置いた。しかし米軍などの連合軍と抗日ゲリラの前に戦況は悪化。食料補給が行き届かず、深刻な飢えも招き、51万8千人という死者を出した。地域別の戦死者は中国(71万1100人)に次ぐ多さとなる。フィリピン人は約110万人が犠牲になったとされる。

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「戦争ほど残酷なものはない」と語る工藤さん=9日、平川市の特別養護老人ホームで
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戦時中の工藤義隆さん

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