語り継ぐ意志 戦後72年 次世代への思い (上)

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児童らを前に講演する吉田さん

 1945年8月15日。日本の無条件降伏を告げる玉音放送は、疎開先の滋賀県豊郷村(現在の豊郷町)で聞いた。大阪市の高津国民学校3年時に学童疎開を経験した吉田房彦さん(81)=奈良県三郷町。一時帰省していた大阪では、第1次大阪大空襲を生き延びた。語り部として、その惨状と疎開地でのつらい体験を語り続け、聴講者がまもなく1万人に達する。

■ライフワーク

 「戦争は失うことばかり。みんなで今の豊かさを守っていってくださいね」。8月のある一日。「平和登校」で集まった東大阪市の小学6年生に向けて、吉田さんがしゃがれた声で語りかけた。ライフワークとして、空襲と疎開という二つの体験を子どもたちを中心に語り続けている。

 吉田さんは35年、大阪市南区(現在の中央区)に生まれた。生後8カ月で日中戦争から復員した父を病気で亡くした。その顔は写真でしか知らない。

 疎開時は小学3年生。「ハイキングに行くような気持ち」が一転、つらい日々が待っていた。戦況の悪化とともに勉強どころではなく、朝夕は農作業、栄養も満足に取れなかった。いじめにも遭った。そして、皮膚の病気で一時帰省していた45年3月。敵機来襲に暗闇の中、母に手を引かれて火の海を逃げ惑った。

■つらい疎開体験

 子どもたちに学童疎開を語る上で必需品にしているのが、同じく大阪市出身で疎開体験をした児童文学者、奥田継夫さん作の紙芝居「お母ちゃんお母ちゃーんむかえにきて」だ。「家に帰りたい」と甘えると先生にはビンタされ、「お前らは兵隊になるんや」と怒鳴られた。そんなある日、大阪で空襲に遭った最愛の母ときょうだいの死が伝えられる−。

 「吉田さんの同級生が疎開の体験を『つらくて話せない』と言っていたのが印象的だった」としみじみ話したのは講話を聞いた女子児童(12)。別の男子児童(12)は「学童疎開は苦しくて、自分だったら生きていけない」。そして「戦争は兵隊同士だけじゃなく、関係ない人も巻き込まれる。想像もできない」。

■来月にも大台

 「社会が裕福になるほどつらかった過去を話すのが恥ずかしかった」と家族にさえ口をつぐんできた。それでも、55歳の節目を機に一念発起。当時の疎開仲間を探し始め、8年前からは体験を語り継ぐ活動も始めた。この1年でその数は約2千人に上る。

 語り部活動を通じて、9月中には聴講者が大台に達する見込みだ。出身地の大阪や、今、暮らしている奈良県内の学校を中心に行脚するが「待っているだけではいけない」と今春には県内自治体の9教委を回って講演を申し入れた。「1万人はすごい数字ですか? でももっともっと伝えていかないと。事実を伝えていきたい」。真っすぐな目で訴える。

◇  ◇

 戦後72年を迎え、戦争の記憶の風化が懸念されている。そんな中、「語り部」たちは戦場や空襲、そして学童疎開などさまざまな立場での経験を通して当時の悲惨な状況や平和の尊さを次世代に伝えている。語り部や語り部を支援する人たちに思いを聞いた。

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