<土崎空襲72年>平和のバトン次世代へ 悲惨な現実 当事者の声で

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爆弾の破片が貫通した国民服を手に当時を振り返る伊藤さん

 太平洋戦争の終戦前夜、秋田市土崎地区で250人以上の命が奪われた土崎空襲から、14日で72年を迎える。同市土崎港西の主婦伊藤津紀子さん(76)は語り部として、空襲体験を伝え続けてきた。戦災記憶が風化する中、「戦争を繰り返さないために、平和への思いを次の世代に継承したい」と決意を新たにする。

 1945年8月14日夜、寝静まった港町の闇夜を赤い閃光(せんこう)が切り裂いた。米軍機「B29」約130機が同市土崎港の旧日本石油秋田製油所を標的に、15日未明にかけて爆弾約1万2000発を投下。町は一瞬にして炎に包まれた。

 当時4歳の伊藤さんは家族と共に、土崎港西の自宅裏の畑に掘った防空壕(ぼうくうごう)に避難した。「ここでは危険すぎる」。父の判断で、約3キロ離れた松林に逃げ込んだ。逃げ惑う住民の叫び声や爆撃音におびえながら、一夜を明かした。

 翌朝、町には民家が跡形もなく、焼け焦げた無数の死体があった。家族9人は無事だったが、防空壕に逃げ込んだ近隣住民は爆撃で亡くなった。「松林に避難していなかったら、間違いなく自分も死んでいた」と声を震わせる。

 銀行を退職した1997年、体験者らでつくる「土崎港被爆市民会議」の運営に携わり始めた。

 語り部を始めたのは2007年。空襲体験を語る人が少なくなっていた。市民会議主催の犠牲者を追悼する平和祈念式典で、子どもたちがメッセージに平和への願いを込めて訴える姿に心を動かされたことも大きかった。

 毎年、被爆した町並みの写真や紙芝居などで戦争の惨状を伝えるため、訪れる市内外の小中学校で必ず見せる物がある。

 隣家に住んでいた小学6年の男児が亡くなった時に着ていた国民服だ。爆弾の破片が貫通し、右脇腹から背中にかけて小さな穴が開いている。

 「命の重さを教えてくれる『生きた資料』」。伊藤さんが語り掛けると、子どもたちは真剣な表情で聞き入るという。

 終戦から15日で72年。戦禍の傷跡は色あせる。空襲で被災した旧日本石油秋田製油所の「被爆倉庫」は今年、老朽化を理由に解体された。

 焼けただれた柱や梁(はり)の一部は来年3月開館予定の「土崎みなと歴史伝承館(仮称)」で展示されるが、伊藤さんは「戦争の悲惨な現実を見せつける景色がなくなるのは残念」と話す。

 市民会議は14日、同市土崎港西のポートタワー・セリオンで平和祈念式典を開く。「当事者の声でしか伝わらない思いがある。命が続く限り、平和の尊さを訴え続けたい」。式典への出席を前に、伊藤さんは改めて誓う。

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